第5話 客観性! 明石家さんま    岩井笙韻

ご存じの方も多いと思いますが、私は十代の頃から、人の運命などについて思うことが多く、八年間も占いの学校に通ったり、二十代からは様々な修行を続けてきました。
 今、修験道(山伏と言えば分かるでしょうか)の行をしています。別の言い方では<神事>(かみごと)と言います。書ではなくこちらの方の私の師は合田和厚(ごうだやすひろ)と言います。
 今からの話は、合田先生の話を元にしているのですが、客観性についてこのように考えてみたらいいと思うのです。

 NHKの素人のど自慢。誰でも一度は聞いたことがあるでしょう。中には毎回見ている方もいるようです。
 しかし、マニアは別として、長い間聞いていると、いい加減テレビを消したくなってしまいます。なんだか辟易としてしまうのです。でも、どうしてでしょう?
 よく、歌には感情移入が必要だという言葉を耳にしますが、どうも原因はこのあたりにあるようです。素人の歌は、個人的な思い入れが強すぎて、それで聞くものが嫌気がさしてしまうのではないでしょうか。カラオケで、聞いていられなくなる歌も、ただ音程がどうのこうのと言うよりも、この感情のなすりつけに原因があると思うのです。「おまえが好きだ~、愛してる~」とマイクに怒鳴られたら大抵は逃げ出したくなってしまいます。
 素人は、歌うことで自分の感情を発散すればそれでいいと言うところがあるのでしょう。鬱憤晴らしのカラオケなんて言うこともあります。
 しかし、プロは違います。ステージのプロの目的は、今この歌を聞きに来てくれているお客さんが、満足すること、そして、もう一度足を運ぶ気になってくれること、更には自分のCDを買ってくれることです。つまり、もうけなければ商売は成り立ちません。
 そうすると、今の自分の歌や表情が、お客さんにどのように受け取られているかを、冷静に理解していなければなりません。
 このことは何にでも言えることで、『お笑い』でも同じです。
駆け出しのコント、登竜門での芸を見ると、よく分かります。激しく奇想天外なコントは初めは笑いを買います。しかし、それが笑いを誘うために無理をしていたり、あまりに感情をむき出しにしていたりしたら、見ている方は醒めてしまったり、反対に同情して拍手をしたりしてしまうでしょう。そして、挙げ句の果てには、厭きられてしまうことになります。
 ここで、例えば長い間、一つの番組を受け持っていたり、引っ張りだこのように長年活躍している人たちを見てみましょう。例えば、

  明石家さんま  タモリ  紳助  

 長い間、仕事をし続けられると言うことは次のことを意味しています。

  1 芸達者で面白い。
  2 一緒に仕事をしているものに人気がある。

 <1>は当然のことですが、問題は<2>が欠かせないと言うことです。一緒に仕事をしているスタッフが、もう金輪際コイツとは仕事をしたくないと思ったら最後です。どんなに才能があっても同じメンバーで仕事は組めないでしょう。やはり、仕事仲間にも評判がよくなければいけません。何しろ、プロはその道で飯を食っているのですからね。八方美人だ何だと言われても、仕事を失うわけには行きません。初めはぺこぺこしているようでも、次第に周りを引き込んでいくものです。
 私の師は、さんまやたけしが、どんなに転げ回って馬鹿なことをしているようでも、目は醒めていると言われていました。  つまり、自分を見る目、他の者から見て今の自分がどのように映っているかを見定める目を持っていると言うことです。それがあるから、周囲の者に合わせたりしながらも、周りを引き込んでいけることになるのです。
 途中で番組を降ろされてしまうなどと言うのはもってのほかです。まあ、それも、先のことを計算してのことなら、プロ中のプロと言えますが、なかなかそう言う具合にはいかないようで。
 このことは、どんな世界にも言えることです。例えば、歴代の宗教家にあっても、空海や日蓮はそのようなことに長けていたと思います。様々な伝説を残した人にはこのような客観性が必ず見られます。
 さて、書の世界です。これは難しいですね。書の世界で客観性を持つと言うことはどういう事になるでしょうか。
 良いことを言っているけれども、作品はどうも・・・、と言われたらダメです。これはまず除いて。
 良い作品は書くけれども人としては最低だ、というのはどうでしょうか?およそ、その書家の弟子にはなりにくいですね。人として変わっているというのなら良いかもしれません。変わっていても、それが悪条件を生まなければいいのです。と言うことは、「人として最低だ」と言われると言うことは、客観性がないと言うことでしょう。先の『型破り』の話ではないですが、マナーを知らなければ非常識にはなれません。知らない人は、一種の『不常識』なのです。 実はこのあたりの問題は、簡単には納められないところがあって、それは改めて考えてみたいのですが、まず、客観性が問われるのは、手本を見るときだと思うのです。
 多くの初心者にとって、手本を与えられても、ほとんどその90%は見破ることが出来ません。手本を見ながら模写すると言うことは、目と腕を鍛えていく大きな手段なのですが、実際、これを読まれている方も経験済みのことでしょう。


  「大きすぎる」 「中心がそろっていない」


 いつも言われていませんか?
 まず、はじめは、半紙の手本を見てまねしようとしても、大きくなりすぎて半紙に収まりません。特に、教書雑誌を手本にすると、実物大よりも小さめに出来ていますから、ますます大きくなります。

 昔、高校生の頃、私は青山先生の半紙の手本を見る機会にぶつかりました。雑誌に掲載された手本はA5位の小さなものでしたから、それを見て早速書いてみました。しかし、半紙に五文字、一行目は三文字ですが、どうしても、二文字半しか入りません。入ったと思うと、文字と文字の空間がゼロ。これが、何枚書いても同じなのです。
 そこで、方眼紙を買ってきました。当時はまだコピーを取る等という高級手段はなかったので、その方眼紙に手本をトレースして、それを半紙に拡大するとどのような配分になるのかを見ることにしたのです。すると、なんと、手本の字の小さいこと小さいこと!その割合に沿って、自分の字を置いてみると、貧弱そのもので話になりません。
 この時、手本の持つスケールというものを初めて理解しました。同時に思ったのは、手本に似せるには今のところは、少し大きめに書かないと対抗できないと言うことでした。その事を理解してから書き進めると、それなりに書けて、父が見てもまずまずのものになったようでした。
 ここには、客観性がどのようなことを意味するかと言うことのヒントがあるように思うのです。
 手本と格闘しているあなた!まず、客観性を養うために次のことを試してください。半紙の手本と言うことにしましょう。


1 手本における大きさの配分に目を向ける。この配分で書く。
手本をコピーしてそこに縦横、方眼紙のように線を引いて、具体的な配分を測る。この時は線が弱くても、ふるえていても良しとする。鉛筆でもよし。手本を下敷きにして、形をトレースし、それを下に敷いて自分でその大きさの通りに書いても良し。

2 手本の文字の、どこに穂先が通っているのかを赤線で引いて見る。そしてその通りに書いてみる。この場合は、形が崩れても良しとする。


 まずこのどちらかをやってみてください。一度に二つは無理かも知れないので、今回は<1>、次回は<2>とか分けても良いです。又、注意するべき事は、


A 手本は半分に折って、自分の半紙の片側に置き、手本と自分の半紙が完全にそろうようにする。

B 手本を見る回数を五倍以上に増やす。じっと見るのでなく て、チラッと見る。それを何回も繰り返す。一文字に10回以上 見る。


 長くなりましたので続きは次回。これらのことについて、もっとコメントがあります。

 

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