書のプロムナード2

さて、前回はとても遊んでしまいましたので、今回からは少しまじめな話を。
単刀直入に言うと、


   自分の字ってどんなものだろう?


と言う疑問に対して考えることです。
 皆さん、そう思うでしょう。自分らしい字って言うのはどんな字かな?しかし、考えてみるとこれもおかしな話で、何年書を学んでも自分の字がどのようなものであるのか分からない。これは一体どういう事なのでしょうか?又、その先に進めたとして、自分の字が分かるとどういう事になるのでしょうか?
 疑問は尽きません。
 昭和二十四年、もう少しで専門の書家以外から初めて日展の審査員になるところだった、会津八一はこんな風に考えています。
 誰かに手本をもらって書を習ってはいけない。例えば、王義之の書が素晴らしいからと言って、王義之の書いた文字が「正しい」わけではない。あれはその時代を反映しているものだし、まして、その前の時代には筆すらなかったではないか。少なくても筆が現れ、実用になってからのことであるし、後の時代に皇帝から好まれたことが王義之を有名にした大きな要因になっている。どんな名人の書も、その時代の賜物なのだ。だから現代に生きる者が、やたらに中国の後を追ったり、平安の仮名しか書けないというのは時代錯誤である。
 だから、まず自分が上手だとか下手だとかにこだわらず、好きに書いてみることだ。頼りにする要素としては、まず今の時代に読みやすいはっきりしたものであること。書家が良くするように、書家にしか読めないようなくずし方や教養をひけらかしたものにはしないこと。
 耳が痛い話ですが、『現代の書』と言う風なものを書くにはこのことを満たしていなければいけないというのです。確かにもっともな事です。
 会津八一は元々歌詠みであり、早稲田大学の教授なのですが、その書は素晴らしい者であり、西川寧先生は前例のないことながら、日展の審査員に推挙したのです。
 しかし、彼は小さいときから書道が苦手で、高校くらいまでは書の授業から逃げ回っていたとのこと。何を臨書しても、ちっとも似てこない。そこで苦し紛れに考え出したことは、どうせ別の人の個性をソックリまねできるはずがないし、そもそもソックリまねをしたとして何だというのだろう。それよりも誰もが見て読みやすく分かりやすく、それでいて素晴らしいという字を書くべきではないか。
 そこで考えたのが、誰もが読みやすく、遠くから見てもはっきりしていて、小さく印刷されていて文字がつぶれないのは、印刷で使う『明朝体』である。だから自分はこの明朝体を基本にして書いていこう。
 なんと恐ろしい発想でしょうか!誰が明朝体のことを素晴らしい書体だと思ったことでしょうか。
 しかし、私たちは活字やパソコンで見ている、この明朝体がどのような構成になっているか、実はよく知らないのではないでしょうか。例えば、自分の名前を明朝体でかける人がいますか?まずいないでしょう。実際よく見ると、何とも不思議な構成なのです。
 会津八一は続けて言います。
この明朝体のように、明快な書を核とする。しかし、大きな字や極端に小さな字を書こうとしたら手が震えて線にならないのではないか。それは、線をまっすぐ引くだけの練習を怠っているからだ。逆に、明朝体から始まって、その形態を自由に筆で書けるようになって、その時初めて、その人の衣が文字に着せられることになるのだ。間違ってはいけないのは、自分(会津八一)は素人の字が素晴らしいと言っているのではない。何の鍛錬も行っているものの字が素晴らしいわけではない。又、何の教養もないものに良い字が書けるはずが無く、又そのような者に良い書が判断できるはずがない。書はしっかりとした鍛錬による全人格の表現なのだ。
 その為には『手習い』と『目習い』を分けて行う必要がある。みんなが手本を模写したり、古典を臨書しているのは、あれは手習いでなく目習いだ。読み取る練習なのだ。本当の手習いとは、しっかりとした姿勢、体力、精神力を持って、どんな長い直線でもまっすぐに、ゆっくりと引けるような訓練をすることだ。だから、半紙に向かい、まず、筆で縦に上から下までまっすぐに線を引く。次には下から上に又同じように引く。それを上下、左右どちらからでも自由に揺れずに引く練習がいる。  又、筆で渦巻きを自由に書けることも重要な練習となる。右巻き左巻き、外から、内から。又、半切に上から下までまっすぐに線を引く。これは自分が移動しながらでなくては引けないから、机の上でよりも難しい。このようなことを基礎訓練とすることにより、自分の意志通りの線を手にすることが出来るのである。


 ははーっ。仰せの通りでございます。
確かにこの言葉は(と言っても、私が代わりに言っているのだが。詳しく知りたい人は、長島健編『会津八一書論集』二玄社)胸に響くものがあります。
実際、長い間一つの手本にこだわってしまうと、自然にその行き方が身に付きますが、実際先生と自分は個性が違うのだから、自分の書というものがあるとすればもっと違うものになっているはず。まあ、この辺は単純には考えられないこともあります。と言うのも、そう言う字を書く先生を選んだと言うことも、選んだ人の個性とも言えるので。
 しかし、この『手習い』、これは有効ですよ。これは私も実践してみて気づいたことです。但し、これにもう一つ、筆の持ち方というのがあるのです。どうもここに一つの鍵がある。
 次回はこの筆の持ち方の話をしますが、今のままの持ち方でも、この線を引く練習はとても良いのでやってみてください。このことは又次回にも関係してきますので、覚えておいてください。

 

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