第9話 いっそ井上陽水 岩井笙韻

第9話  いっそ井上陽水    岩井笙韻


 はなはだしく脱線して別のジャンルのことを書きます。でも、おさらいを兼ねています。
 まずは井上陽水!(どうしてかな?)
 井上陽水に『いっそセレナーデ』と言う曲があるからこのような題名にしました。
 誰でもそうかどうか分からないけれど、私にはいつでも聞いていたい、いつ聞いても良いなあと思うミュージシャンがいます。
枚挙してみると・・・。


井上陽水
沢田研二(一人で歌い出してから)
森山良子(ザワワザワワは長すぎて嫌になることも)
ブラームス


 実は熱狂的に好きなものは他にもあります。例えばベートーベン。ピアノソナタ全曲集だけで五組もっています。しかし、たまにどうしても聞く気にならないときがある。岩崎宏美の声はいつでも聞いていたいけれど、どういう訳か飽きてしまうときも(彼女は―と言っても付き合っているわけではないが―私と同じ音域。だから何でも歌える)。
 しかし、上記の四人はいつでも聞いていたくなります。なんか共通項がないし、一貫性がないですねー。
 ところがよく見ると、沢田・森山・ブラームスには共通項があります。勿論、私にとってと言うことですが。それは、感情、感性の流れが自分に沿っているような感じなのです。
 それに引き替え井上陽水!
 あるものは怪しく、あるものは謎に満ちて、あるものはくだらなく、あるものは郷愁を誘う。アルバムは驚きの構成。これは何なのか? 二十代の頃、心に決めたことがありました。よし、いつかはこの男の謎を解くぞ、と。
 それから30年。ほとんどの曲を聴き、十六枚組などと言うアルバムも買い、研究書(?)も読み(『陽水の快楽』武田青嗣著が一番面白い)ひたすら博士号を目指しました(??)。十六枚組みを一気に聞いたときは寝込むようなこともありました。しかし、そこまで気に入っていたわけです。新しいアルバムが出るとたいていはその意外性に驚いてしまうのですが、それが、どこかで自分の琴線に触れているのです。
 『井上陽水』というのは本名です。「陽水」を「あきみ」と読みます。誰もそのように呼んでくれないので嫌になったようなことが何かに載っていました。でも、この名前、あの音楽そのものに思えませんか?
 <陽水>とは私のイメージでは<逃げ水>のことです。晴れた日にアスファルトの道を車で走っていると、遠い道に水がまかれたように、さながら鏡の面のように、道の上の車や世界を映し出す、あの蜃気楼。水に映った太陽(それで<陽水>)。そこに近づこうとすると消えてしまう。映し出された世界が、近づくにつれて逃げていくような・・・。そんな音楽ではないですか? 誰にでもお勧めできる名曲入りのアルバムをと言われたら、

  『氷の世界』
  『二色の独楽』

を聞いてください。特に『氷の世界』の中の『心もよう』は誰が聞いても名曲だと思います。
 しかし、陽水の本当の名曲は、『二色の独楽』にある『ゼンマイじかけのカブト虫』だと思うのです。


カブト虫 こわれた
一緒に楽しく遊んでいたのに
幸福に糸つけ
ひきずりまわしていてこわれた

白いシャツ汚した
いつでも気をつけて着ていたのに
雨上がり嬉しく
飛んだり はねたりして汚した

青い鳥逃がした
毎日 毎日 唄っていたのに
鳥籠をきれいに
掃除をしているとき逃がした

君の顔 笑った
なんにも おかしい事はないのに
君の目が こわれた
ゼンマイじかけのカブト虫みたい


 悲しげなトーンの中に語られるのは失恋のようでもある。しかし、それこそ子供の心のままに世界とつながりを持とうとしても、というよりは正確には持とうとするが故に、世界は自分から双曲線のように離れていく。すれ違っていく。どこにも悪意はないのに。
 心が繋がっていると思っていた恋人がある日自分を訳もなく笑う。心の繋がりでありそうな眼が、壊れてしまったような。もう自分の心は届いていない。それは理由や動機とは異なる、世界の自分との異質性の意識である。世界は自分が思ったのとは違う何者かなのだ。
 曲によっては陽水の歌は、何かを求めて生きていたいのに何をどうして良いかも分からない青春のいらだちを表してもいます。又、コミカルに、爆発した自閉症のような曲もあります。暗そうなのにバカに明るいときがあるのです。  しかし、この『ゼンマイじかけのカブト虫』のように、さりげなくちりばめられた曲に陽水の本質の部分が語られているように思うのです。
 それは、この世には、自分のあこがれ求めるものが、あらかじめ無いと分かっていながら、あの世に向かうよりもこの世をそれなりに(ここが大切)楽しみ、だから、都会も田舎も、社会悪も花見も、ミスコンテストも相撲も全て一緒くたにして、どうとでも思えるような楽しみに変え、どうせならいっそ周りを楽しませながら生きること、そう言う自分と世界との独特の乖離が生む美しさなのです(但し、井上陽水があこがれ求めるものが、どんなものであるかについては又一考を要します)。  武田青嗣が指摘するように、陽水の歌には失恋そのものを歌った歌はないのです。それらしいものはあってもそれは、演歌や他のフォーク歌手のようにならないのです。感情からどこか隔たっているのです。
 これはさんまやたけしの客観性に似ています。この客観性が私には心地よいのです。
 もし、陽水のアルバムの中で最高傑作を挙げよと言われたら迷うことなく、

  『ライオンとペリカン』

を挙げます。『とまどうペリカン』という一種の(?)ラブソングで始まり、次の『チャイニーズフード』という何回聞いても意味の分からないような曲を経て紆余曲折、あっち行きこっち行き、遂に本来は沢田研二に捧げた『背中まで45分』で締めくくり。何年も経ってテレビドラマの主題歌に取り上げられた『リバーサイドホテル』、宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』をもじった『ワカンナイ』。どれも逸品!
 しかし、この美しさはやはり、あの客観性です。
 一応、この文章は『書のプロムナード』に乗せているのだから、ここで書の事も一つ。
 書の客観性は文字で保証されています。前衛派の弱みはここなのです。前衛派は、その客観性の部分を自分で保証しなければただ感情を押しつけてしまう可能性があるからです。しかし、逆にこの客観性が強いので、なかなか他の芸術のように自由がきかないという側面があります。却って、この客観性が邪魔になってムキになって変わったスタイルを持ち出す書家も出てきます。しかし、その客観性の保証をうまく利用して出来上がった名作がいわゆる古典として残っているでしょう。それらをクールに見てみるのはすごい勉強です。歌舞伎の型のことも思い出してくださいね。
 それでは次も又、もしかするといっそ○○と言う事になるかも。

 

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