第7話 私の頭の中の無限のおしゃべり    岩井笙韻

『私の頭の中の消しゴム』見ましたか?次第に記憶が失われていくヒロイン、ソン・イェジン、なかなかきれいですね。『四月の雪』も良かったですけれど・・・。
 おっと、そんなことを言ってる場合ではないのです。だいぶ間が空きました。
 今日は、書を創作の方に寄せてみた話です。
 書を、美術館で鑑賞するというのは昔からあったことではありません。誰かの書を美術館で見ることが出来ると言うことは便利には違いないのですが、その功罪もあります。
 まず、良いところは、大作が可能になったと言うこと。それも沢山の書家の大作が一度に見られます。
 では、具合の悪い点とは何でしょうか?
 まず第一に、大きな書作品が、一度に全部見渡せることです。
 えっ、それの何が悪いのかって?いや、悪いとばかりは言えないのですが、そこで失われそうなことがあるのです。まあとにかく、大きな部屋でいくつもの作品が同時に見られるようになる事になったわけですが、その為に大きな紙面に対して、書家が絵画的な考えを持つようになったに違いないのです。
 具体的に言いますと、第一印象の大切さを考えざるを得なくなったということです。
 絵の場合にはそれを正面から見たときに、どこから見るかは自由です。勿論、書の場合もそうですが、書の場合は文章でもあるので、文章の初めから見る(読む)のが元々の見方でした。特に、巻子・帖の場合はそうなるでしょう。又、狭い部屋で書かれた者の場合はやはり、書かれた順に見ていくと思います。
 書かれたものにはリズムがあります。それが、文章に沿った形で展開するところが絵画と異なります。しかし、一目で審査を通過する作品群の場合、このリズムは少し異なったものになります。審査員の受け?ねらうというのは、良い言い方ではないのですが、やはり作品をより二次元的な見方で作ると言うことになるでしょう。一目でぱっと見て良いもの。
 しかし、古典を見ると、書かれた文字を追っていくときに、そこに作者の息づかいがあり、そのリズム、筆使いを追体験することも書に特有の鑑賞の仕方なのです。
 よく、この作品に手本があるかどうかすぐ分かる、と言う声を耳にしますが、手本にこだわった作品にはこのリズムが希薄なのです。私は個人的には、手本があってもなくてもどちらでも良いと思っています。中には手本と一体になるくらい書き込んでいる内に、独特のものが生まれてきて結果としては手本とはまるで異なるものができあがったと言うこともあるからです。
 この<リズム>は、なかなか自分でもよく分からないもので、自分の身体を通して現れてくるものです。しかもやっかいなことに、それは、撰文によって、又、書体によって、又紙や墨によっても異なった現れをします。
 逆に言えば、ある意味では自分、と言うより、自我と言った方が適切ですが、自分の意識下から湧き出てくるもので、そのものとして拾い出すことは出来ません。しかし、そのリズムが、無意識のうちに墨量やスピード、回転のあり方、文字の間隔ばかりか文章まで選ばせるものだと思います。
 書の才能がある人というのは、この部分で文字を書いていくことが出来るのだと思います。
 では、逆に才能のない人というのはどんな具合なのでしょうか?これを一言で言うと、そのリズムを身体を通して発現しにくい人です。このリズムは、誰にでもあるのですが、それが書として現れる人とそうでない人といるのかも知れません。それが書家としての才能の有無と言えるのかも知れません。
 でも、今、書が好きで習っている方は、皆それぞれ才能があると思います。好きこそものの上手なれ、と言うではないですか。
 でも、なんだかいくらやってもうまく行かない、と言う人も多いですね。では、こういう場合、書くときに何が具合が悪いのでしょうか?
 これは自分の経験から言うのですが、その時に、私の頭の中には、沢山のおしゃべりがあることに気づいたのです。集中していないのです。言い換えれば、集中しているようでいて、そのおしゃべりの方に気持ちが少しは取られているのです。雑念と言うでしょう。しかし、雑念というのも言葉です。声なき言葉なのです。書きながら、今日あった出来事、お腹が空いた、今後の予定、腰がいたい等々。
 今でも調子が悪いときは、このおしゃべりが出てきます。しかし、その事に気づいたら、すっと穂先の方に気を向けます。紙との接点。墨、筆、紙が自分の手を通してである場所。そこに意識を向けるのです。慣れない人にはこれが続きません。又、天性の才能のある人にはこんな事は当たり前のことですが・・・。
 実は、別に作品製作中でなくても、私たちの心(あるいは脳?)は、休むことなくこの手のおしゃべりを続けています。試しに何も考えない時間を作ってみてください。じっとしているとその様子がよく分かります。少しでも空白を作ると、心はくだらないこと、意味あること、思い出話などを脈絡無くどんどん話し始めます。内容に統一はありません。私たちの心を丸一日、グラフにとってそこに表れる言葉を映像に出来たなら、自分でもあきれるほど無駄話に浸っているのです。しかもその様子が、同じ世界に生きている人々に結構共通のパターンなので、そうしたおしゃべりが、私たちを同じ世界の住人として安心して暮らしているのではないかと思っています。
 しかし、芸術家とか宗教家というのはこの無駄話(それはあたかも、あらゆる無駄話が手を取り合って、無意識下からやってくる声を妨害しているようにも思えるのですが)に裂け目を見つけて、ただ惰性に満ちた世界に、動きをもたらす異物をもたらすことを使命にします。先ほど、天性の才能のある人・・・と言う言い方をしましたが、逆に頭の中にこのおしゃべりのない人は世渡りがうまく行きません。その理由は結構学問的になりますので、機会があったら説明しますが。だから、いつも密室に澄んでいる芸術家よりも、普段を他の人たちと平然と暮らしているような芸術家が実は毒を持っているのです。世間が犯されている催眠術(最もこれはたとえ話で、それが悪いと言っているのではありません。『世間で暮らす』というのは、実はこのおしゃべりを心の中で反復したり、実際に言葉にして生きる事なのですから)を見抜いていて、自分も催眠術にかかっているふりをしているのですから。
 このことについては、昔から宗教では気づいていることで、座禅をしていて初めに出てくる雑念妄想はこれです。
 そして、一時的にでも、その声を遮断するときに、身体の底の方からリズムが響いてきます。
 音楽を聴きながら書く人もいるようです。しかし、音楽はそれ自体のリズムがあるので、危険な場合もあります。よほど自分に合っていないと音楽に引っ張られてリズムが変調を来します(このことはいずれ語ることになる『入魂』と密接な関係にありますが、それは又その時に)。
 ちょっと脱線しますが、音楽と書のコラボレーションというものが最近あります。書家が音楽をバックにその音楽に合わせたように書くというもの。まあ、こういうのも新しい指向ですが、今言ったように、本来の書のリズムは内在的な、音のないものなので、外からの音楽で書くというのはあまり感心しません。
 書展は音が要りません。バックグラウンドミュージックは邪魔になります。巻子に書かれたものを眼でなぞっていくときに、そこにリズムを読み取ることが出来ますが、そのリズムは単に音楽として表現するものとはまた少し異なっているように思えるのです。
 ぱっと見が良くなくても、又、紙面の中で全体としてはバランスが崩れていても、その内在のリズムを持っている作品はあります。しかし、そう言う作品はなかなか展覧会には登場できなくなってしまったように思うのです。点字を読み取るようにそのリズムを追いかけるというのも、作者と見るものとの本質的な対話だと思うのですが。

 前に、スケートの清水選手のことを書いたことがありますが、自分が卵の中に入ってしまって、外からの声が聞こえなくなる、と言うのも極度の集中により、わき起こるリズムそのものになること、これの最高の状態を示しているのだと思います(ついでに言うと、私たちが自分では出来もしないのにスポーツ観戦が好きなのは、単に誰が勝つかが楽しみなのではなくてアスリートとリズムを共有する楽しみがあるのではと思います)。
 これは、しかし、心身が疲れ切ってしまうくらいに作品に没頭すると自動的に現れることもありますし、集中した臨書の時にも心は静かになります。又、めちゃくちゃに練習量を増やしたときにもそうなることがあります。あるいは、沢山の枚数を書いて、もうダメだと思い、墨が余っているからもう一枚、と思って書いたときにそのリズムになることがあります。
 もしも少しでも似たような経験を持ったら、その事を良く覚えておいてください。一度起きたことは二度起こります。
 そのリズムが個人のものなのか、それとも、別の所からやってくるものなのか、それは大きな問題なので即答は出来ませんが、私なりの考えはあります。それは又いずれ。

 

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