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書のプロムナード2

さて、前回はとても遊んでしまいましたので、今回からは少しまじめな話を。
単刀直入に言うと、


   自分の字ってどんなものだろう?


と言う疑問に対して考えることです。
 皆さん、そう思うでしょう。自分らしい字って言うのはどんな字かな?しかし、考えてみるとこれもおかしな話で、何年書を学んでも自分の字がどのようなものであるのか分からない。これは一体どういう事なのでしょうか?又、その先に進めたとして、自分の字が分かるとどういう事になるのでしょうか?
 疑問は尽きません。
 昭和二十四年、もう少しで専門の書家以外から初めて日展の審査員になるところだった、会津八一はこんな風に考えています。
 誰かに手本をもらって書を習ってはいけない。例えば、王義之の書が素晴らしいからと言って、王義之の書いた文字が「正しい」わけではない。あれはその時代を反映しているものだし、まして、その前の時代には筆すらなかったではないか。少なくても筆が現れ、実用になってからのことであるし、後の時代に皇帝から好まれたことが王義之を有名にした大きな要因になっている。どんな名人の書も、その時代の賜物なのだ。だから現代に生きる者が、やたらに中国の後を追ったり、平安の仮名しか書けないというのは時代錯誤である。
 だから、まず自分が上手だとか下手だとかにこだわらず、好きに書いてみることだ。頼りにする要素としては、まず今の時代に読みやすいはっきりしたものであること。書家が良くするように、書家にしか読めないようなくずし方や教養をひけらかしたものにはしないこと。
 耳が痛い話ですが、『現代の書』と言う風なものを書くにはこのことを満たしていなければいけないというのです。確かにもっともな事です。
 会津八一は元々歌詠みであり、早稲田大学の教授なのですが、その書は素晴らしい者であり、西川寧先生は前例のないことながら、日展の審査員に推挙したのです。
 しかし、彼は小さいときから書道が苦手で、高校くらいまでは書の授業から逃げ回っていたとのこと。何を臨書しても、ちっとも似てこない。そこで苦し紛れに考え出したことは、どうせ別の人の個性をソックリまねできるはずがないし、そもそもソックリまねをしたとして何だというのだろう。それよりも誰もが見て読みやすく分かりやすく、それでいて素晴らしいという字を書くべきではないか。
 そこで考えたのが、誰もが読みやすく、遠くから見てもはっきりしていて、小さく印刷されていて文字がつぶれないのは、印刷で使う『明朝体』である。だから自分はこの明朝体を基本にして書いていこう。
 なんと恐ろしい発想でしょうか!誰が明朝体のことを素晴らしい書体だと思ったことでしょうか。
 しかし、私たちは活字やパソコンで見ている、この明朝体がどのような構成になっているか、実はよく知らないのではないでしょうか。例えば、自分の名前を明朝体でかける人がいますか?まずいないでしょう。実際よく見ると、何とも不思議な構成なのです。
 会津八一は続けて言います。
この明朝体のように、明快な書を核とする。しかし、大きな字や極端に小さな字を書こうとしたら手が震えて線にならないのではないか。それは、線をまっすぐ引くだけの練習を怠っているからだ。逆に、明朝体から始まって、その形態を自由に筆で書けるようになって、その時初めて、その人の衣が文字に着せられることになるのだ。間違ってはいけないのは、自分(会津八一)は素人の字が素晴らしいと言っているのではない。何の鍛錬も行っているものの字が素晴らしいわけではない。又、何の教養もないものに良い字が書けるはずが無く、又そのような者に良い書が判断できるはずがない。書はしっかりとした鍛錬による全人格の表現なのだ。
 その為には『手習い』と『目習い』を分けて行う必要がある。みんなが手本を模写したり、古典を臨書しているのは、あれは手習いでなく目習いだ。読み取る練習なのだ。本当の手習いとは、しっかりとした姿勢、体力、精神力を持って、どんな長い直線でもまっすぐに、ゆっくりと引けるような訓練をすることだ。だから、半紙に向かい、まず、筆で縦に上から下までまっすぐに線を引く。次には下から上に又同じように引く。それを上下、左右どちらからでも自由に揺れずに引く練習がいる。  又、筆で渦巻きを自由に書けることも重要な練習となる。右巻き左巻き、外から、内から。又、半切に上から下までまっすぐに線を引く。これは自分が移動しながらでなくては引けないから、机の上でよりも難しい。このようなことを基礎訓練とすることにより、自分の意志通りの線を手にすることが出来るのである。


 ははーっ。仰せの通りでございます。
確かにこの言葉は(と言っても、私が代わりに言っているのだが。詳しく知りたい人は、長島健編『会津八一書論集』二玄社)胸に響くものがあります。
実際、長い間一つの手本にこだわってしまうと、自然にその行き方が身に付きますが、実際先生と自分は個性が違うのだから、自分の書というものがあるとすればもっと違うものになっているはず。まあ、この辺は単純には考えられないこともあります。と言うのも、そう言う字を書く先生を選んだと言うことも、選んだ人の個性とも言えるので。
 しかし、この『手習い』、これは有効ですよ。これは私も実践してみて気づいたことです。但し、これにもう一つ、筆の持ち方というのがあるのです。どうもここに一つの鍵がある。
 次回はこの筆の持ち方の話をしますが、今のままの持ち方でも、この線を引く練習はとても良いのでやってみてください。このことは又次回にも関係してきますので、覚えておいてください。

 

第11話  自分の書を探して2 撥鐙法   岩井笙韻

※撥鐙法(はっとうほう)

 前回、『手習い』と言う話をしました。
私がこの話に興味を持ったのは実は次のようなことがあります。

 展覧会などで、書家の作品はいつも目にしているわけですが、思いも寄らぬところで素晴らしい書を目にすることがあります。それは、書家とは異なる世界の人の書いたもの。一例を挙げると、

  熊谷守一    画家
  高村光太郎   彫刻家、詩人
  中川一政    画家、詩人
  会津八一    歌人、学者

 熊谷守一は、池袋に小さな美術館があるので一度行ってみると良いでしょう。絵画としてもある意味和風で独特ですが、書はすごいです。書家仲間で先輩の廣畑築州さんに言わせれば、良寛を超えているとのことです。私の印象では、良寛の方が<書家的>なのです。良寛は予想に反して、筆や紙をかなり選んで書いているのに対して、熊谷守一はそのあたりはお構いなし。却って小さなシールに書いたものに雰囲気が出たりしている。
又、書いてくれと頼まれると、断るのが面倒なのでどんどん書いてしまったと言うこともあって、出来不出来もありますが。  高村光太郎は、ご存じ『智恵子抄』で有名ですが、実際には父の代から彫刻家です。しかし、彼の文章に『書の深淵』と言うのがあり、書が実用性と芸術性のこんがらかったところに位置していて、それが深みを帯びさせる、と言うようなことを書いています。そして、光太郎自身も書が最後の芸術であることを十分に意識していて、晩年はかなり書に打ち込みました。その書はなかなか厳しいものもあり、熊谷守一よりもとがっている感じはあります。しかし、『人体豊麗』と書かれたものなど絶品です。
 次に中川一政。高名な画家ですが、元々は歌や詩を書いていました。それが絵を褒められて画家になってしまったと言う。だから、専門的に学校で絵画を習ったわけではなく、その事が独自の画風を生むのですが、若いうちはかなりの間コンプレックスになっていたようです。その彼が、金冬心の書を見て赤面するほど心がふるえたと言っています。実際、中川一政の字は無骨で、まさに彼が言うように『裸の書』と言うにふさわしいものですが、彼が金冬心に影響されたと言うよりは、彼の持ち味が金冬心のようなタイプだったのだと思います。私の個人的な感想では、彼の書には力があるが、本当に感心する書は何点かで、後はあまり無骨すぎてそれほど好きではありません。しかし、その良いものはとてつもない人の力を感じさせます。ついでに言うと、何でもずけずけ言ってしまう人ですが、若い頃の『野の娘』というのは良い詩集ですよ。深い情を感じます。これから私もその中の詩を書いてみたいと思っています。
 会津八一については前の回でも少し述べてみましたが、彼らに共通するのはやはり、何らかの形で書とは別の姿で筆を持っていると言うことです。特に高村光太郎は彫刻刀を持つ。刀の持ち方で筆を持って書いているのではないか。会津八一は絵も上手です。
 会津八一は、三尺もの長い線を一筆で書くことは画家には出来ないもんだと言っています。確かに、絵は何回も塗っていくので、線の息は短いと言えるでしょう。だから、絵画でも墨絵の描き方は書に近いかも知れません。
 それともう一つ、どうも、彼らは皆、小さい文字を書くときにも右手の肘をつけずに、又、枕腕(左手を枕のように右手にあてがう)事もせずに書いているようなのです。
 良寛もそうだったという話を聞いたことがあります。
会津八一の写真集に、彼が書を書いているところが撮ってありますが、その筆の持ち方は、あの中国人の持ち方、すなわち、親指と人差し指でまず筆の上をつまみ、下の方を中指と薬指で押さえる。つまり二点で筆を支えるあのやり方です。
 昔から『撥鐙法』と呼ばれる筆の持ち方があるとされていて、これが本当にその持ち方なのかどうかは確信が持てませんが、会津八一はそのように考えているように思います。
 ある日、駅のホームで、暇だからステッキで地面に渦巻きを書いていると、それを見ていた書家が、「これは、撥鐙法ですね。」と言ったらしい。それに対して、会津八一は、さすがに年期の入った書家は見ているものだ、と言っていますから、そうなのでしょう。
会津八一が言うには、長いステッキの先を持って地面に安定した渦巻きが書けたり、長い直線が書けたりすれば、短い筆で書けないわけがないと言っています。
 『書く』と言うことは、必ず、墨やペンなどの書くものと、紙が必要になります。と言うことは、その二つが出会うところには摩擦が生まれるわけで、逆にその摩擦を利用して私たちは線を進めていくのです。しかし、心が不安定なときや、力仕事をしたとき、又そうでなくても一定の太さであらゆる方向に縦横無尽に線を引くことはとても難しいことです。
 会津八一にとっては、このように、自由にあらゆる方向に線を引けるような訓練を『手習い』と言うのです。
 前回にも述べたように、誰も自分の書というものを持っていて、それを表現するのが目的だとしても、やはり、線を引くと言うことは筋肉運動であり、心身のバランスが微妙に関わり合ってくるものです。
 私は今この『手習い』を実践している最中なのですが、そこには、自分も枕腕でないと細楷が書けないという理由もあるのです。枕椀ではどうしてもやや線が平べったくなります。腕の動きの柔さが損なわれてしまいます。どんな大きさのどんな書体の文字も自由に、腕の動きを殺すことなく引けたらそこには自分の本当の表現が出来るような機がします、少なくてもその条件が出来るような機がします。
 よく、楷書の名品の中に『九成宮』や『雁塔』がありますが、それらを練習するときに大抵は半紙に六文字くらいの大きさで練習していませんか?しかし、それらの名品の学習用の書籍の中には、半紙での練習用に、かなり現物を拡大して印刷しているものがあります。よくその姿を見てみると良いです。相当おかしなものです。決して名品には見えないと思います。二玄社あたりから出ているものが、あれが実物大(か、少し小さめ)なのです。大小を変えたら使う筋肉も違うでしょう。だから、まずは実物大の練習が良いのです。 さてやってみましょう。
『雁塔聖教序』を半紙に7文字×4行でかくと、ちょうど実物大くらいになります。それで約三十枚くらい。五時間半くらいかけると丁寧に出来ます。
 そこで分かること。本当に心身共に充実しているときはいつもの五感と異なる状態になる。心がかけても、筋肉が出来ていなくてもダメ。
 今のところ、その状態は十パーセント未満ですが、そのくらいの経験は得られました。手習いと目習いでその確率を上げていくともっと自由に線を引けるようになると思います。練習を終えると、右手は初めての運動をして時のような疲れを感じます。しかし、それが新しい方向への旅立ちかも知れません。どうなるでしょうか。

 

第12話  もう一つの書き方 鞭とハンマー   岩井笙韻

前回、撥鐙法でした。
しかし、実はこれと異なる考え方があります。そして、この考え方も考慮に入れなければ書法は完成しないのではないかと思います。
これを名付けて


   『鞭とハンマー』法(!)


これは別に書法ではありません。有名な野口整体からヒントを得たものです。
 またスポーツの話になりますが、ゴルフでボールを打つ、野球でボールを打つ等、当たったボールが出来るだけ勢いよく、しかも制御された方向に飛ぶようにするためには、人間の体を最大級効率よく働かせなければなりません。
 鞭で打たれたことありますか。痛いものですよ。SMでなくても鞭は痛い。その痛みは堅い棒でたたかれるよりも痛いくらいです。しかも、鞭を操る方は少しの力で済みます。人間の体を鞭のようにしなやかに動かして、ボールに当たったときのインパクトを金槌のように堅くすればボールには大きな力を加えることが出来るでしょう。 
 よく、腰をひねると言いますが、これも体の鞭の長さを伸ばすためのものです。腰(というよりはやりの言葉では丹田ですが)から出た力を最大限増幅して手の先まで持ってくる。そして、もっとその先のバットやクラブでボールをたたく。
 力が下腹の臍下丹田(体の重心と思っても結構です。本当はそれほど簡単なことではないのですが)から出て、足の踏ん張りとしなやかさに支えられ、腰のスムースなひねり、背骨のねじれを伴って肩、腕、手、指先、それからバットという方向に力が増幅されながらインパクトの瞬間に向かいます。
 但し、腰をひねればいいと言うものではありません。ひねりと言うことからすると、2002年に大活躍した元巨人の桑田投手や、現在の上原投手は腰をひねらない方だと思います。力の向かう方向に対する体の向かい方にコツがあるのです。野口整体には、背骨を自分で尺取り虫のように動かして力を腰から上の方に伝達する運動があります。このように、背骨の上に伝えるというのも大事なのです。逆に腰をあまりにひねりすぎると速く痛めることになりかねません。
 このように言うとずいぶん難しいことのように思いますが、要するに、人間を鞭の先にハンマーをつけた機械だと思ってもらえばいいのです。最強のインパクトマシーンです。
 さて、このように考えると、この力の持って行き方は書にも通じるものがあると思いませんか?
 書こうとする意志が、体の中心から腕を通って筆まで伝わる。それが強烈な線質をもたらすにはやはりこのような力の伝達があることは確かです。
 鞭は長い方が良い。ハンマーは堅い方が良い。
そうなると、ここでも、枕椀は具合が悪いことになります。と言うのも、腕を固めたらそこから先の鞭になってしまうからです。又、小手先でハンマーをたたいているような感じになってしまうでしょう。
 この考え方は撥鐙法と矛盾しないでしょうか?
確かにこの二つの方法には明らかな違いがあります。
 まず初めに、鞭は途中で切れたらダメです。鞭が切れやすいところ、それは、三つあります。

   手首・肘・肩

ここが固まってしまうと鞭はその固まったところから先だけの長さになってしまいます。肩から肘、手首から指の先まで緩やかに繋がっているのが鞭としては理想的なのではないでしょうか。
 その事を念頭に置いて考えてみると、撥鐙法は手首を、ある意味では殺して固定させます。その事で指を解放すると、ある本では書いてありますが、実は指もやや硬くなります。なにしろ筆を二カ所でしっかりと支える持ち方なのですから、確かに堅くなります。
 又、大きめな紙に書くときには、左手で自分の体重をしっかりと支え、右の肩を自由にして、肩から先を自在で動かすことが出来るようにするのが良いとされています。確かに、右腕は解放されぶらぶら出来ます。
 しかし、今度はボーリングを考えてみると分かるのですが、ボールを投げる右手がぶらぶらしているわけではありません。あくまで他の身体の動きと一体になって力がそれなりに入り、指がボールの穴から抜けるときには相当指先にインパクトが加わります。
 さあ、手を浮かして如何なる小さな文字でも書けるようなことを目指す撥鐙法、これに欠点があるのでしょうか?
 私はこう考えます。撥鐙法で培われた手と筆の姿は、理想の金槌、ハンマーを作るやり方ではないかと。自分の経験では基本通りの撥鐙法では柔軟な文字は書けません。そこには微妙は指先の連携や手首との連携がいるのです。
 例えば、細字の時でも、基本的な撥鐙法は目に近いところ、つまり手元に近いところで書いて、紙を送っていきます。しかし、遠くの位置に細字を書こうとして、なおかつ撥鐙法を生かそうとすると、親指と人差し指を少しつり上げるようにする必要があります。その他、沢山の小さな変更が要ります。気づいてみるとそれは出来るだけハンマーの強さを保ったまま自分を鞭化している様なのです。
 今度は、『鞭とハンマー』法に難点はないでしょうか?あると言えばありますね。何しろ、書はバットやクラブでなく、一番先にあるのが柔らかい穂先なのですから、インパクトと言ってもごしごしこすりつける力ではないわけです。そこにえも言えぬ深みがあります。撥鐙法とその応用技術がないと本当の意味で筆を良いハンマーに変えることは出来ないと思います。  ですから、これまでに語ってきた二つのことを良く比べてみてその融合をそれぞれ行っていただきたいのです。

 

第13話  悪について 岩井笙韻

ここからは、全く別の話になります。ある意味では大変な迷路にはまりこみます。
端的に言いますと、芸術に関しては、<美醜>が問題になりますが、ここでは<善悪>を問題にしたいのです。特に、



    



です。
 芸術作品の中には悪を扱ったものがあります。悪と言ってもいつもいつも平和な市民に意地悪をするような悪党は初級の悪党。勧善懲悪の物語に出てくるのはこういう初級の悪党。初めは意地悪が成功して、わっはっはっと笑っていますが、そのうちにウルトラマンや仮面ライダーが出てくると負け戦。しかし、こういう<悪が正義に負ける>仮面ライダーの世界は底が浅くて子供でもすぐに飽きてしまいます。
 問題なのは本当に悪だかなんだか分からないようなもの。正義のつもりで動いていたら知らぬ間に悪に染まっていたとか、人間の心に潜むどろどろとしたものとも通底する、一言で手放しに正義だとは言えないようなもの、こんなものが問題なのです。推理小説の好きな方にはすぐに分かるでしょう。横溝正史の物語、例えば『八墓村』や『犬神家の一族』には、血の因縁に操られ、自分の善悪の意志よりも大きな力に飲み込まれていく人間が描かれています。そう言うときにその該当者は悪人と言えるでしょうか?
 又、悪が醜い姿をしていれば問題は少ないのですが、吸血鬼も結構美女が多く、妖怪もきれいなことが多いものでして、善悪と美醜がスクランブルしてくると簡単な問題ではないことが分かります。
 はたまた、これに好奇心というようなものが加わるともっと大変。誰が見ても明らかにおぞましくエロティックな絵画を部屋に掛けてあったら、毎日見ている気にはならなくなるでしょうが、屋根裏部屋にあるとちょっと覗いてみたくなる。こっそり読むマルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』は(現代のサディズムはもっとすごいが)当時の世界ではたまらなく面白かったに違いない。
 又、ムードたっぷりのカフェに、ムンクの『さけび』があったらどうでしょう。静かに眠りにつこうとして寝室に入ったら、煌々と照らされた壁にピカソの『泣く女』がかかっていたら・・・。しかし、ムンクやピカソが悪だとは思えない。?!?!
 絵画や写真、文学には不穏な要素がたっぷりあります。これは、前にも言いましたように、芸術というものが人間の無意識に宿る、不合理な部分を表現するときに起こることなので、いずれ又バタイユでも引用しながらお話しするときがあると思いますが(バタイユ!聞いたアとのない人は是非覚えておいてください。今世紀最大の思想家変人鬼神の一人。三島由紀夫がこよなく愛し、著作の名前も『太陽肛門』などという恐ろしげな題名をつけたりしながら、長い間地味な図書館員であったという不気味な人。乞うご期待!)、では、そのほかのジャンルではどうでしょうか?
 音楽に悪の音楽というようなものがあるでしょうか?悪人だけを満足させるような音楽があるでしょうか?あまり聞いたことはないですね。逆に歴代の悪人が無類のクラシックマニアだったと言うことはあるようです。
 私は最近、と言っても二年前くらいですが、たった一つ<悪の音楽>を聞きました。それはあの『スターウォーズ エピソード3』の中でのこと。どのシーンかを説明するのには又三十分ほどかかってしまうのでこちらも又次回かその次くらいに説明します!と言うことは音楽でも悪の音楽というものがないわけではないと言うことですね。
 それでは書に関してはどうでしょうか?



    悪の書



そんなものがあるでしょうか?
 悪人が書いたからと言ってそれが悪の書とは限りません。あくまで出来上がったものは作者を引きずっていない見方ができます。五木寛之が自伝のようなもので語っていましたが、お母さんを死に追い込んだ極悪非道のロシア兵が歌う歌が、心を揺さぶられるほど素晴らしかった、と言うこともあるのです。
 さてそう言われると、<悪の書>というようなものに該当するものは見つかりませんね。内容もひどく見にくく、見るからに醜い書を掲げて喜んでいる人を見たことがありません(見る目がないという場合を除いては)。これは一体どういう事でしょうか?
 実はここに、書が他のジャンルの芸術と異なる点があるように思えるのです。書は悪を表現できないのでしょうか?あるいは、書は悪をも浄化して表現してしまう(?)のでしょうか?それとも書はその深みにおいては人の心の奥を表現するもので、人の心の奥には仏性のようなきれいなものしかないと言うことを示しているのでしょうか?
 私の考えでは、この<悪>についての考察がないと宗教も芸術も片手落ちになることが間違いありません。次回から本格的に悪について、哲学的心理学的経済人類的宗教的趣味的な考察を行っていきます。(なかなかもどってこられないような・・・。)

 

第14話  悪について2 悪を考えてみよう   岩井笙韻

さて、<悪>の二回目です。
まず、何とか悪について定義してみましょう。


  質問 悪とは何か?
  答え 平和を乱すこと。


 これなどはまともで分かりやすい。しかも、なかなか反駁しにくい。しかし、ちょっとつっこんで考えてみると、なかなか一筋縄ではいかないことに気づきます。まず、


  質問 平和って何か?
  答え いつも争い事なく生活できること。


 なるほど。良いですね。政治も見かけではこのような状態を目指しているように思います。特に共産主義は理想としてはこのような傾向にあります。それに比べると、資本主義の世界は競争世界ですから、必ず相手を打ち負かすようなレースの社会になる。それで、負けた方は身も心も平和ではなくなる。だからダメ?資本主義は悪?
 そんなことはないですね。逆に、いつも心が一定で波風ないと人は飽きてしまいます。毎日、縁側でまんじゅうを食べながら日向ぼっこをするような・・・。
 ここらあたりが難しいことなのです。それでは答えを変えます。


  質問 悪とは何か?
  答え 平和を望んでいるのにそれを邪魔すること


この方が良いでしょうか。望んでいるとき、と言う限定付きです。仮面ライダーの世界では平和を乱す悪役はこのような形で出てきます。
 それでは人はいつ平和を求めるのでしょうか。


  答え 平和が得られないとき。


 さあ何が何だか分からなくなりました。言えることは、人間は皆勝手で自分が穏やかでいたいのに邪魔するものは皆悪に感じるのです。それでいて平和が続くと刺激が欲しくなる。
 子供なんか少し暇になると、誰かにちょっかい出してもらいたくなりますね。大人でもそんなものなのです。人は少し安定するとちょっとした刺激が欲しくなるのです。
 では今度は、その刺激の大小とも関わるのではないかと言うことも考えてみましょう。
少し限定した言い方をすると、


  人を傷つけ、特に殺してしまうのは悪である。


 良いような気もしますね。人は自由になりたがっている。まあ、何が自由かもよく分からないのですか、その自由を束縛したり(傷つけ)、完全に奪う(殺す)事は悪である。どうだろう、これで良いだろうか?
 しかし、では凶暴な殺人鬼を殺すことは悪だろうか? 
このあたりは意見が分かれるところです。
 一方では、悪人をのさばらせておいてはますます善人が被害にあうだけだ、抹殺されても仕方がない。こういう人もいるかと思えば、いやいや、悪人でも必ず善の心をどこかに持ち合わせているはずだ。だから、時間がかかっても更正に向かうべきだ、と言う人もいる。しかし、もたもたしている内に善人がバタバタと倒されていく。判断を失った主人公の銃口がふるえながらも火を噴く。ドギューン。映画監督もよく分からなくなってくるとこの手を使う。仕方なかったのだ。

 今度は別のことを考えてみましょう。
一見して、悪人からダメージを受けたように思ったが、後になって考えてみるとそれが自分の成長に役立った、と言う場合。  主人公は、幼い頃から父親に自分だけひどい仕打ちを受け、泣きながら自分のことを全て自分でやらざるを得なかった。しかし、移民した後に、その自分で事を成し遂げると言うことが力になったのだ。成功した後に、父親と再会する。

  
  再会A  父親はこれまで見たこともないような優しい笑顔で近づいてきた。そして言った。「おまえはあのままでは何も出来ない惨めな性格だった。だから、ああしてわざと厳しくして、おまえの中の力を引き出そうとしたのだ。これまでのことを許してくれ。」

  再会B  父親はこれまで見たこともないような優しい笑顔で近づいてきた。そして言った。「悪気はなかったんだ。でもおまえは私のおかげで今のような良い生活にありつけたじゃないか。今度は私に恩を返してくれよ。」


 主人公はAの父親を許した。しかし、実は父親は心の中で舌を出していた。全く心にもない嘘をついたのだ。かくて、悪人父親はそのまま意気揚々と生き延びる。

 主人公はBの父親を足蹴りした。しかし、父親は嘘をついてはいなかった。唯アホなだけだった!
 結局どの父親も、悪意を持ちながら主人公に接した。しかし、結果としてそれが功を奏した。この場合悪は許されるか?主人公が許した場合、OKなのか?許さなかったらだめなのか?
 しょうがないですね。何を考えてみてもなかなか一筋縄ではいかない問題です。

 それでは、ここで、悪とか悪意というものについて、非常に深い洞察を秘めている映画を紹介しましょう。
  ご存じ『スターウォーズ』。


 意外ですか?でもこれは、私が知る限り、善と悪に関して最大の洞察を含んだ物語なのです。
 『スターウォーズ』は六部作です。本当は、もっと多くの物語があり、映画化されているのはその一部なのですが、その後の小説群はこの六部作の主人公の末裔、その又末裔が繰り広げる物語で、全部読んだら何十冊にもなるのですが、この映画化された部分で全てなのです。後は付け足しと考えて結構です。
 しかし、奇妙なことにこの六部作、発表が第四部から始まって、五、六、一、二、三と続きます。だから結末が分かってから、そのような展開になった原因を初めに戻って理解させていくという風になるのです。
 はじめの『スターウォーズ4』が放映されたのだ1977年だから、もう30年経つわけで、私などは初めから見ているから4・5・6・1・2・3と言う風になるが、1から見ている世代もかなりいるわけだ。実際、どちらから見るかでだいぶ印象が違います。
 実は悪を理解して行くにはやはり4から見るのが一番!しかし、十代の者にそんなことが出来るかな? 
 今回は、小説番スターウォーズ3,『シスの復讐』(ソニーマガジンズ)から序の部分を引用させていただいて終わりとするのだ!


 これは、遠い昔、遙か彼方の銀河で起こった物語だ。これはすでに終わっている。何人たりとも、そのひとつをも変えることはできない。
 これは愛と喪失、兄弟愛と裏切り、勇気と、犠牲と、夢の死。われわれの最善と最悪のあいだにあるあいまいな一線の物語である。
 これはひとつの時代が終わる物語だ。
 物語には、奇妙な特性がある─
 これはみな、遠い昔、はるか彼方の銀河で起こった出来事でありながら、いまこの瞬間に、ここで起こっているとも言えるのだ。
 これを読んでいる者に起こっている、と。



 どうだ!すごいだろう。

 

第15話  悪について3 善と悪の間   岩井笙韻

さてスターウォーズ。
 映画の順に第四巻から見て行きましょう。
 昔、宇宙で平和が続いていたが、ある時から、『シスの暗黒卿』を頂点とし、その忠実で最強の部下『ダースベイダー』(何故かサイボーグのようでいつも黒い兜をかぶり、コーッ、コーッという呼吸音を響かせている)の率いる帝国軍が全ての銀河系を制圧する。元々平和に暮らしていた人たちはその支配を逃れて、又再び正義の共和国を作ろうと力を合わせ、同盟軍を組織し、帝国軍に立ち向かう。
 宇宙には<フォース>と呼ばれる力が満ちていると言われる。しかし、普通の人たちには全く分からない。そのフォースを用いて平和を築いてきたのが、正義の騎士達、<ジェダイ>だ。しかし、今やジェダイは伝説となってしまった。言い伝えによれば、昔、『ジェダイ狩り』と言うものがあって、その時にジェダイは滅ぼされてしまったというのだ。
 <フォース>そのものには善悪の区別はない。単に力なのだ。それを操る者が正義か悪かによって結果が異なると言うことだ。
 今最も強いフォースを持つ者は帝国軍の二人、『シスの暗黒卿』と配下の『ダース・ベイダー』。この二人の力は圧倒的で、その恐怖政治には帝国内でも誰も文句を言うことができない。悪の超能力者そのものなのだ。
 しかし、その二人がふと危惧を持つ。かすかに、自分たち以外のフォースの存在を感じるからだ。
 そして、その力の保持者が第三巻からの主人公『ルーク・スカイウォーカー』だ。彼はまだその力については無自覚だが、その力が同盟国側に発揮されたら帝国もうかうかしていられない。いつ、ジェダイが復活するかも知れないからだ。
 帝国軍は彼を捕らえようとする。又、ルークとは別の意味で、同盟国の命運を握るレイア姫も捕らえ、人質に取ることで、同盟国を殲滅しようとする。
 その時、ルークに心強い味方が現れる。それは隠者のような姿のジェダイ、『オビ=ワン』だ。彼は潜伏して、才能のある者を待っていたのだ。又、辺境の星には、ヨーダと呼ばれる小さな老人がいて、ルークに修行をさせる。ルークは次第に自分がかつてのジェダイが持っていたようなフォースを操る力を秘めていることに気づき始める。
 帝国軍と同盟国軍の戦は熾烈を極める。様々なキャラクターが登場、様々な事件が起こり、遂に、ルークはダース・ベイダーと対決する。しかし、まだ力の差は歴然。ルークは追いつめられる。そして、命が危なくなったその刹那、ダース・ベイダーは想像だにできなかったことをルークに伝える。


 「ルークよ!私はおまえの父なのだ。私の元に来い。そして力を合わせ、この宇宙を支配するのだ!」 (えーっと、大体こんな様なことを言っていますが、原文に忠実ではありません。ご了承の程を。)


 ルークは動揺する。嘘だ!そんなはずはない。私の父は立派な人だったと聞いている。こんな悪の権化のはずがない!
 首を振るルークにライトセイバー(フォースをため込んだ剣)が一閃。ルークは片腕を落とす!
 それでも助けられたルークは、父のことが頭から抜けない。嘘だとは思う、しかし・・・。そして、それが事実だったことを知る。それを受け入れなければ。しかし、どうしたらいいのだろう。(実は同盟国のレイア姫はルークの双子の妹だった。そして彼女にもフォースが。しかし、それはスターウォーズのテーマにとってはエピソードに過ぎない。) 心に迷いを持ちながら、ルークの修行は進む。戦いの中で、オビ=ワンはダースベイダーに倒され、ヨーダの寿命は尽きる。
 そして遂に、同盟国は最後の決戦を挑む。一度は破壊したものの、再び建設されつつある最悪の武器デススター、それは、一撃で惑星を消滅させることのできる帝国軍の切り札なのだ。それを破壊しながら悪の頂点『シスの暗黒卿』を倒さねば平和は訪れない。そして、そこに立ちはだかるダース・ベイダー!
 ルークは覚悟を決める。彼は敢えて帝国軍に捕らえられ、本当の父であり、今は悪の権化であるダースベイダーと感情を超えた戦いをしなければならないのだ。父であるダースベイダーも親子の情は捨てていないように思われる。彼は実はシスの暗黒卿(別名、ダース・シディアス)を倒し、ルークと親子でこの宇宙を支配したいと言った。ダース・ベイダーは完全にダース・シディアスの配下であるわけではないようなのだ。
 案の定、ダース・ベイダーはルークを捕らえ、シスの暗黒卿の元に連れて行く。ダース・ベイダーはシスの暗黒卿を倒せなくても、シスなら、ルークの心を闇に変え、その意味では連帯をもたらしくくれるかも知れないからだ。
 しかし、ルークはここで、予想外の状況を目にする。同盟軍が秘密の内に進めていた第二デススターの破壊計画は、帝国軍によって既に読まれていたのだ。待ちかまえる帝国軍の圧倒的な数のスター・デストロイヤー(これは巨大な宇宙戦艦で、その大きさには度肝を抜かれる)。その前になすすべもなく立ちつくす同盟軍の勇士達。
 その状況をルークに見せつつ、かすかに笑うシスの暗黒卿!そしてささやく。

  「ルークよ!見るが良い。このどうにもならない状況の中でおまえの仲間達は一人、又一人と命を落 としていくのだ。私にたてついたものの運命なのだ。さあ、怒れ。怒りに身をゆだねよ。その怒りがおまえを暗黒の世界に解き放つ。おまえはダークマスター(闇の方向にフォースを操るジェダイとは正反対の騎士)となるのだ!」
 憎しみ、怒りは闇の心、そのようにルークはジェダイ達から学んでいた。どんなときにあってもその心の持ってフォースを用いたら自分が暗黒の世界に飲み込まれてしまう。しかし、味方が次々に打ち落とされていくのを前に、こみ上げてくる怒りをどうしろと言うのか!悪を倒す怒りも悪だというのか!
 シスの暗黒卿はその事を知り抜いていて、ルークを誘っているのだ。
ルークは剣(ライトセイバー)を抜いてシスの暗黒卿の斬りかかる。しかし、その剣を止める剣!そこにダース・ベイダーが控えている。だが、怒りにまかせた剣はダース・ベイダーをも倒す。ルークの力はここまで上がっていたのだ。
 ダース・シディアス(シスの暗黒卿)は気持ちよさそうに笑う。そうだルークもっと怒れ。そして、私の前に跪くのだ。  この時、傷ついたダース・ベイダーは理解した。暗黒卿は私を使い捨てにするつもりなのだ。昔からシスが動くときには二人がペアになって動いてきた。頂点にダース・シディアス、そしてもう一人の騎士。その騎士には最強の者が選ばれる。ダース・ベイダーがまさにそれだった。しかし・・・。過去のパートナーがどうなったか?あの凶悪なダース・モールは助けなくして命を落とし、次のドゥークー伯爵(これは、映画では元ドラキュラ役のクリストファ・リー。ドゥークー伯爵とドラキュラ伯爵!ジョージ・ルーカスも冗談がうまい)も私(ダース・ベイダー)との戦いで使い捨てにされた。今度は私が使い捨てになるのではないか?
 しかし、ルークは首を振る。誰が悪の手先になどなるものか!
シスの暗黒卿から笑いが消える。それならおまえは死を持って償え!双の手からは強力なフォースが放たれる。ルークがこれまで見たこともないような強力な破壊の力。もうこれ以上持ちこたえることはできないだろう。その時思わず声が出る。
 「お父さん、助けて!お父さん!」
ダース・ベイダーはうろたえる。自分のマスター、シスの暗黒卿と息子であるルーク。そして、ルークの声がひときわ大きく響いた、その時!ダース・ベイダーはシスの暗黒卿を最後の力で持ち上げ、宇宙船の動力源に向かって投げ落とす。最後に息子への愛が勝ったのだ!しかし、力尽きるダース・ベイダー。仮面をはずし(サイボーグにとってはそれがもう死を意味する)息子に微笑む。
 こうして、悪の権化は死に、帝国軍は崩れ落ち、銀河には再び平和が訪れる。


 こういう内容です。なかなかドラマティックですね。しかし、これだけの話なら、別にスターウォーズが秀でているようには思われません。このような終わりは他にいくらでもあるからです。
 ここまでの話は第四、五、六話で、第六話が完結編なのですが、監督ジョージ・ルーカスはこれから後に第一話を発表します。スターウォーズが尋常な物語でないのはこの一話を見ると分かるのです。
 第一話には、とってもかわいくて、しかし、小さいながらもとてつもなく大きなフォースをまとったアナキンという男の子が主人公となり、悪を懲らしめるのです。しかし、ルークの父ダース・ベイダーの本名はなんとアナキン・スカイウォーカー!!最後には父親らしさを見せるが、極悪非道のダース・ベイダーの幼き頃がこのかわいいアナキンなのです。一体、どうしてこのいとおしいアナキンがダース・ベイダーに変身するのでしょうか?ここが問題なのです。
 ここからは次回。
何でこんな事が書道と関係あるのかと思う人も多いでしょうね。私もすっかり忘れて語っていました。しかし、もう少しの辛抱。芸術とか芸が善悪と関係ないところでなされているなら、それはカスのようなものだと思いますので。

 

第16話  悪について4 善と悪の間、その深み  岩井笙韻

今日は長いぞーっ。とにかく、この悪の問題に片を付けねば、その間に報告しなければならないことが山ほどたまってしまった。最後まで行きます!


 さて、第六巻で映画はハッピーエンドとなりました。もうこの宇宙には悪は来ないのでしょうか?
 と、ここで突然映画は時代を逆戻りして、第一巻になります。


 第一巻では前回述べたように、可愛らしい男の子、アナキン・スカイウォーカーが登場。場面はどうやら、共和国によって続いてきた銀河の平和に暗雲が立ちこめている様子。
 共和国の中心でもあるナブーという星の女王アミダラ(アミダ如来から着想しているそうだ)がねらわれている。ジェダイマスターのクワイ・ガン・ジンと弟子のオビ・ワンは共和国のために、不穏な動きを見せる通商連合に赴く。
 しかし、そこには2000年前にジェダイを脱退し、フォースの暗黒面で修行するシスが動いていることをかぎつける。シスは強力なフォースを用いながらも、お互いが猜疑心で固められているために、ジェダイとの戦いでは全滅してしまった。たった一人を除いては。その一人は長い間堪え忍び、銀河の平和の中でシスの名前が忘れられるのを待っていたのだ。
 それは、シスの暗黒卿(顔はマントで覆われていてよく見えない)と、その弟子ダース・モール。シスは猜疑心のために連帯を組みにくい。その為に最小限のユニットとして、師と弟子の二人で動くことを原則としている。
 その不穏な動きの中、ジェダイも油断できない状態になる。そんなときに、ジェダイの二人は、小さいながらも驚くべきフォースを持った男の子、アナキンを見つける。
 ジェダイには言い伝えがあった。それは次のようなものだ。

 宇宙の平和が危うくなったときに、フォースにバランスをもたらす、選ばれたものとして、最強のフォース を身にまとったものが現れて悪を滅ぼす。

 クワイ・ガン・ジン達はアナキンがその『選ばれたもの』なのではないかと思う。そして事実、アナキンの大活躍で、ナプーへの侵略は失敗に終わり、ダース・モールは倒されるが、ジェダイもクワイ・ガン・ジンを失う。
 残されたオビ・ワンはジェダイの評議会にかけて、アナキンをジェダイの騎士として育てることを提案する。この時、評議会の中心に座るヨーダは、首を振る。許されればアナキンは母親と離れてジェダイの修行に旅立つことになるのだが、ヨーダの見たところでは、アナキンの母親に対する情が深く、それが修行の妨げになるのではと言う懸念が消えないのだ。肉親に対してであれ、深い情は暗黒の心に繋がるというのだ。
 オビ・ワンはヨーダを説得して自分の弟子として育てることとなる。しかし、このヨーダの懸念が大きな意味を持ってくる。
 弟子を失ったシスの暗黒卿はその事よりもむしろ、喜びと期待を持っているように暗黒の宇宙に目をやる。以上第一巻。


 第二巻では、10年くらい経ったころだろうか、銀河の平和はまだ保たれている。突然、アミダラが暗殺されそうになる。そこで急遽召還されたオビ・ワンとアナキン。アナキンは久しぶりにアミダラ女王と対面する。美しくなった女王と凛々しく育ったアナキン。女王が年上であるとはいえ、そこには何かを予感させるものがある。
 女王は再び暗殺者にねらわれる。しかし、その暗殺者の残した矢は、ある星の特徴を表していた。それを追うオビ・ワン。アナキンは女王を護るために二人で女王の生まれた星、平和な緑の国ナブーへと旅立つ。そして、当然のように二人の間には恋が芽生える。
 しかし、ジェダイには恋は禁止されている。修行の間、感情のコントロールは完全になされなければならない。パドメ・アミダラ(これが正式な女王の名前)はそれを知って自制を促すが、アナキンの心は止められない。
 一方、暗殺者を追って冷たい水の国に飛んだオビ・ワンはそこで、おびただしい数のクローンが軍事訓練を受けているのを目にする。そして、それは共和国の依頼によるものだというのだ。一体誰の命で?
 それは、今はジェダイを脱退したドゥークー伯爵によるものだった。彼は、ジェダイの禁欲が、実はフォースを理解することに制約となることを主張し、ジェダイからはずれていき、今何をしているのか分からない。しかも、その大量のクローンはアミダラへの暗殺者のクローンだったのだ!ドゥークー伯爵はどこに?
 彼は密かに通商連合と組んで、冷たい水の星でこれまた大量のドロイド(高性能ロボット)を生産していた。それにより銀河を乗っ取るつもりだ。オビ・ワンはその星にまで行くが捕らえられてしまう。
 しかし、アナキンはその事に気づく。そして、無謀にもパドメと共にオビ・ワン救出に赴く。確かに、パドメの戦闘能力も傑出したものはあった。だが、やはり逆に二人も捕まってしまう。磔にされ解き放された怪獣に追われる身となる。三人の命運もこれまでか?
 その時、一斉にジェダイが立ちはだかる。三人を助けようと全てのジェダイがやってきたのだ。ジェダイの長的存在であるメイスはさすがに強い。そして、10人を上回るジェダイはドロイドを次々と倒していく。しかし、数は強い。次第に追いつめられていくジェダイ達とアナキン達。
 これが最後かと思ったとその時、空から戦艦が急降下する。そこにはヨーダが!そして、ヨーダは多くのクローンに護られていた。あの、冷たい水の星で作られていたクローンを呼び寄せたのだ。クローン対ドロイド。死を恐れぬクローンはドロイドを圧倒する。通商連合のトップ達は住むことの難しい炎の星に逃げる。そして、ドゥークー伯爵はオビ・ワンとアナキンの二人と戦うことになる。
 ドゥークー伯爵は強い。アナキンは右腕を落とす。そして、オビ・ワンはヨーダに助けられ、ドゥークー伯爵は逃げる。  遙か彼方に逃亡したドゥークー伯爵はそこで待っていた一人の人物に語る。
  「これで良いのですね?」
「よくやってくれた。」
そう笑いながら語るのはあのシスの暗黒卿ではないか!これは反逆軍の負けではないらしいのだ。そこには何かまだ共和国には分からない秘密があるようなのだ。
 一方、アナキンとパドメは密かに結婚する。ジェダイが知らぬうちに・・・。彼らは心に秘密、つまり闇を作ってしまったのだ。
 勝利できたことを語るオビ・ワンに対して、ヨーダの心は重い。クローンを持ち出したことが敵の罠であるような・・・、そんな気がするのだ。これは敗北の始まりかも知れない。
(以上第二巻)


 第三巻では、共和国元老院(国会のようなもの)の最高議長パルパティーンが敵のグリーヴァスと呼ばれる通商連合の将軍にさらわれるところから始まる。この第三巻と二巻の間にも話があるのだが、それは映画では見ることができない。カトゥーン・ネットワークでは漫画で見られる。小説にもあるが読まなくても大体分かる。
 共和国の星の大気圏内で繰り広げられる激しい空中戦。ここでもオビ・ワンとアナキンは縦横無尽に戦う。特にアナキンは図抜けている。更に時を経て、アナキンは自分が『選ばれたもの』であるという意識を持っているようだ。向かうところ敵なしなのだ。
 ここでも、パルパティーンを救いにグリーヴァスを追いつめる。しかし、そこにあのドゥークー伯爵が現れる。以前、腕を切られたあの強い伯爵。今は腕をサイボーグ化しているために腕の働きは依然と変わらない。だが、それだけではないようだ。アナキンは以前のアナキンではない。たちまちの内にドゥークー伯爵を追いつめる。アナキンは捕えるべきかどうすべきを、まだ縄で縛られているパルパティーンに伺う。
 共和国の両親とも言うべき最高議長パルパティーン。しかし、パルパティーンの言葉は予想を裏切るものだった。
     「ドゥクーを殺せ!」
アナキンはためらいながらも、ドゥークー伯爵の首をはねる。
 その直前、ドゥクーは全てを悟る。これがシスのやり方なのだ(このあたりで、パルパティーンがシスではないかと言うことを感じさせるが、これは小説の方ではそうなのだが、映画ではまだ定かでない。)。シスは今以上の才能を持ち合わせている者を新たに見いだしたら、前の弟子はもうどうでも良いのだ。もしかしたらシスはこのアナキンを・・・。
 凱旋帰国のアナキンを待っていたのはパドメだ。しかし、人前で抱き合うわけにはいかない。共に暮らしていることなど誰も、ジェダイすら知らないことなのだ。
 アナキンはそこで、パドメに子供が宿ったことを知る。なんと嬉しい知らせ。しかし、誰にも言えない。
 この頃、アナキンは不吉な夢を見るようになっていた。あの、自分の母親の時の同じ予知夢のようなものを。それは愛するパドメが死んでいく夢だった。これは本当になることかも知れない。ではどうしたら彼女を助けられるのか。
 一方で、ジェダイの評議会はアナキンを評議会の一員として列席させるかどうかを会議している。大勢はアナキンは最強のジェダイであることを認めながらもまだ感情をコントロールできていないことを懸念し、まだその時期でないとする。以前(第二巻で)アナキンの母親が残虐な星の住人にさらわれ、ついには死んでしまったときに、アナキンは怒りのあまりその住人達を皆殺しにしてしまった事があった。危険があるのだ。
 パルパティーンは救出されて以来、特にアナキンを近くに呼ぶようになる。アナキンはそれを光栄に思う。そして、二人きりの時に、パルパティーンはアナキンがもっと認められて当然だし、評議会の一員であるべきだと言うことを述べる。アナキンも不平を漏らす。パルパティーンはそれはジェダイ達がアナキンに嫉妬しているからだと語る。心揺れるアナキン!
 ジェダイの評議会では、何故どのようにしてパルパティーン議長の住み家が敵に察知され、さらわれるような失態を招いたのか、それを考えていた。もしかしたら、内部にスパイがいるのではないか?いるとしたら誰なのだろう。評議会はアナキンにパルパティーンの動向を探るように指示する。
 パルパティーンは動じない。ジェダイの評議会に押さえられ自由な行動ができず、又、パドメの未来を心配するあまり、心に迷いをふくらませているアナキンに堂々と語る。


   「私がシスだ。」
   「ジェダイは理解を通じて力を手にする。ところが、シスは力を通じて理解を手にするのだ。シスの方 が昔からジェダイよりも強いのはその為だ。ジェダイは暗黒面を恐れるあまり、人生の最も重要な要素である情熱から自分たちを切り離す。彼らは自分たちに愛することすら許そうとしない。反対に、シスは暗黒面を恐れない。かれらは存在がもたらす全スペクトラムを抱く。深い喜びから、底知れぬ憎しみ、絶望まで。だからシスの方が強いのだよ。彼らは感じることを恐れない。」    「パドメを救うには私のアプレンディス(弟子)になり、そのフォースを使うことだ。」


 アナキンは愕然とする。しかし、パドメは救えるのだ。迷いに迷うアナキン。アナキンはパルパティーンの正体をメイス達ジェダイに伝える。しかし、アナキンには待機せよと言う命令しか下りない。
 メイスはパルパティーンを追いつめる。パルパティーンは正体を現す。強大なフォースと智恵!アナキンはそこに居合わせる。後一歩までメイスはパルパティーンを追いつめる。しかし、彼が死んでしまったらパドメの未来は・・・。アナキンはメイスを諫める。
 と、その瞬間、パルパティーンの両手からは強大な暗黒の力が。メイスは吹っ飛ぶ。
ジェダイを殺すことに力を貸してしまったアナキン。戦いで世にも醜い顔となったパルパティーンは笑いながらアナキンに告げる。
「見よ!共和国と言いながらジェダイは彼らの独裁に走っているのだ。アナキン、目を覚ませ!我の前に跪け。おまえが本当に選ばれし者なのだ。私によって!さあ、ジェダイを一掃しろ。そして自由な大きなフォースを手に入れ、この銀河を支配するのだ。パドメのためにも。」
 もうジェダイに従っていては学べることはないのではないか?アナキンは全てをシスにゆだねた。これでパドメも助かるのだ。
   「仰せのままに。」
   「アナキン・スカイウォーカー、私の前に跪くが良い。今日から永遠にシスと共に生きるのだ。そして君の名は今日から、ダース・ベイダーだ!」
 アナキンはもう戻れなかった。彼は、シスの言うがままに、クローンの兵士達を引き連れ、ジェダイの子供を全て殺してしまう。
 一方、シスの手によって、<オーダー66>という指令が通達される。この通達がでるやいなや、兵士の全てであるクローン達は一斉にジェダイを襲う。ジェダイは次々に倒されていく。残ったのはヨーダとオビ・ワンだけ!ドゥークー伯爵の元に生産されたクローンの兵士には前もってこのことがインプットされていたのだ。何という恐るべき計画!
 パドメもパルパティーンが裏で手を引く張本人であることを感づいていた。アナキンを止めなくては!彼女はオビ・ワンに頼んで、アナキンを説得しようとする。しかし、そこに現れたアナキンは、パドメまでが自分に敵対していると思って猛り狂う。パドメの命さえ奪いそうになるのだ。止めるオビ・ワン。そして、オビ・ワンとアナキンの果てしない戦いが始まる。
 アナキンは憎しみそのものとなる。そして、シスが味方をしてくれていると思っていた通商連合までも皆殺しにしてしまう。オビ・ワンが止めることができなければ、この世はシスの支配下に置かれてしまうのだ。
 誰が悪いのか?アナキンは悪いことをしてはいないのではなかったか?純粋にジェダイの騎士にあこがれ、母を愛し、パドメを愛した。しかし、その情を止めているのはジェダイではないか。それは情がなければ安全かも知れない。しかし、真実がそんなところにあるか?
 炎の星、通商連合の隠れ家が次々と崩れていく中、アナキンとオビ・ワンの戦いは続く。力はアナキンの方が強い。押されるオビ・ワン。しかし、全てが溶岩と化していく中、足場も失われる。そして、アナキンが不用意に飛び上がった一瞬の隙をついて、オビ・ワンのライトセーバーが一閃!アナキンの両足は一瞬にして切断される。もがくアナキン。
  アナキン  「オビ・ワン!おまえを恨む。」
  オビ・ワン 「君は選ばれし者だった!シスに加わるのでなく、シスを滅ぼすことになっていたはずだ。フォースにバランスをもたらすはずだったのに、闇をもたらした。君は私の弟だった!」
 その時、上からは闇の気配が。シスの暗黒卿が近づいているのだ。パルパティーンは、全議会を招集して、ジェダイが独裁しようとしていることを吹き込んだ。市民から長年にわたって最高の信頼を寄せられて彼の言うことだ、市民が従わぬはずがない。全てはシスのもくろみ通りになった!
 オビ・ワンはパドメの所へ。もう子供は生まれかかっている。しかし、彼女はアナキンへの思いに苦しみ、衰弱しきっている。体の傷は癒えている。しかし、アナキンのいない今、もう生きようとする力を失ってしまったのだ。
 アナキンは?
両の足、肘も失い、かろうじてドロイドとなった手で体を支えてうめくアナキン。そこに深い声が・・・。
「まだ、死んではいない。生きよ!ダース・ベイダー!」
救急隊が彼を運ぶ。
 パドメは苦しみながら双子の子を産む。男の子ルーク、女の子レイア。そして、たった二人になってしまったジェダイ、ヨーダとオビ・ワン。彼らは元共和国にとっては反逆者に過ぎない。時が来るまで潜伏する必要がある。パドメの子達も知り合いに預けて、遠い星で育ててもらうことにする。
 ヨーダは考える。どうしてこのようになってしまったのか。アナキンは!
時は移りゆき、時代は変わったというのに、自分は昔と同じような指導しかできなかったのだ。とっくにシスの方がこのことに気づいて対処していたにもかかわらず。
 ダース・ベイダー(アナキン)は静かに目を覚ます。彼の体は黒い鎧に包まれ、サイボーグそのものになっている。自ら発する声すら金属の響きでしかない。
   「パドメは、パドメはどこに?」
傍らに立つ暗黒卿(パルパティーン、別名ダーク・シディアスは笑いながら答える。)
   「気の毒だがベイダー卿、彼女は死んだ。君が怒りのあまり殺してしまったらしい。」
 なんと言うことだ!パドメを思ってしたことが!ベイダーの怒りのフォースが周りのドロイドや機械を破壊する。しかし、この程度のフォースしか持てなくなってしまったのか。この時にベイダーはダークサイドの罠に気づいた。もう自分には暗黒卿を倒す力はない。逆に、この力を増すためには暗黒卿の智恵が必要になる。もう逃げ場はないのだ。このまま、アナキンを忘れてシスの道に従うしか・・・。そして、いつの日か暗黒卿を倒して自分の世界を作るのだ。



 結局、第六巻で、ダース・ベイダーは暗黒卿を倒すことになるのですが、それは、初めのもくろみとは違って、ルーク(パドメとアナキンとの間の男の子)への父親としての愛情によってなのです。全くの極悪非道に見えた彼の心にも愛の灯火は消えていなかったのです。

 ふ~っ終わりましたぁ!全くの映画解説です。さて、もう少し。悪についてのまとめ。恐らく近いうちに、全六巻のびDVDが出るでしょうから、興味のある方は全部見てください。
 そこで、見方ですが、やはり第四巻から見るよろし。ダース・ベイダーの非情さをよく知っておいて、その生い立ちを理解するのが良いと思います。



 さて、悪とは何なのでしょうか?勿論ここでは悪の権化はシスの暗黒卿です。しかし、彼が直接したことは何だったのでしょうか?決して嘘などついていません。むしろ本当のことを言い続けたのです。むしろ、様々な制限を設けていたのはジェダイの方ではないでしょうか。その制限は真実を前にしたら動揺します。ジェダイは悪に飲まれる可能性の故に、恋愛や身内への深い情を禁止しています。それが<正義>の弱みです。又、自分の本心に忠実なアナキンは逆に忠実であるが故にパドメへの恋心を周囲に隠していなければならず、嘘をつくと言うことで、心の中にシスにつけねらわれることになる弱みを持ってしまうわけです。本当に自分の心に忠実だったのはアナキンです。しかし、その為に最悪のベイダーになる運命に陥りました。  では、アナキンは『選ばれた者』ではなかったのでしょうか?この点に関しては、私の師、合田先生がよく教えてくれました。

 『選ばれた者』と言うことについて、ジェダイもシスも勘違いしていた。ジェダイはこの言葉を『最高の正義の使者』と考えたし、シスは『最高のシスによって選ばれた者、最強のフォースを持つ者』と考えた。しかし、ダース・ベイダーが誕生し、共和国が壊滅状態になり、多くのジェダイが死んでしまうことになることでジェダイはアナキンに裏切られたし、シスは、最後の場面でベイダーにより殺されることで幕が引かれてしまう。結局又共和国が復活することになる。
 悪を克服するということは、自らが悪に踏み込むことによってしか果たす事のできないものなのだ。ジェダイが常に後手に回るのはジェダイが感情、情熱に一線を引き、そこから入らないようにしているからだ。一方、シスは<善>に全くこだわりがない分だけ善に対してふしだらだ。遙か昔からジェダイよりも強かったにもかかわらず、滅ぼされかかってきたのは、仲間意識とか連帯に対して価値を置くことができず、自分とフォースの関わりしか考えられなかったからだ。
 アナキンは徹底的に愛に生き、情に従い、そして善にこだわった。そしてその全てにより傷ついた。こうした者が暗黒面に赴くときに善悪の全てが理解されるのだ。だから、やはりアナキンが『選ばれた者』だった。
 彼のように全ての面を受け入れる者は誰にとっても魅力的だ。オビ・ワンと比べてそのあたりが違うのではないか。ジェダイの誰もがアナキンの魅力には叶わないのではないか?(俳優が好きかどうかと言う問題になるとどういうものですか)  又、このようなこともある。ジェダイはどこにいてもすぐに分かるのにシスのありかはなかなか分からない。そしてどんな姿をしているのかも謎である。どうしてか?それはシスは人のそれぞれの心に住んでいるものだからだ。だから、最終巻でシスの暗黒卿が倒されても又いずれ復活するだろう。悪は誰か一人のものではないからだ(事実、その後の小説で又ダーク・シディアスは復活することになります)。

 又、ジェダイにもシスにも乗り越えられていない感情があるようにも思います。それは<嫉妬>です。ジェダイの中に、アナキンに対する嫉妬がなかったとは言えません。ましてシスの方には野放しです。嫉妬とはあらかじめ予防できるものでなく、嫉妬して初めて後悔するような恐ろしい感情の一つです。嫉妬は悪魔の誕生の心とも言われています。嫉妬の有無惨劇は別の様々な小説や映画で語られているので、それは又いずれ。

 こうして、恐ろしく長い悪の説明が終わりました(?)
書とどういう関係があるかって?こういう事に無自覚であったら深い書は出来ないように思えませんか?やはり本当に素晴らしい書をもたらすものは、人間に対する深い心をもっていると思うのですが・・・。但の善人ではダメです。自分の心にあるダークサイドに目を向けなければ。ただの悪人ではもっとダメです。ただの悪人は諦めてください。最もシスの暗黒卿のような本当の悪人は異常に深い心をもっているので、自信のある人はその声に耳を傾けてみたら恐ろしくも良い勉強になると思いますが。
 さて、こうしている間に、撥鐙法にある種の限界があること、改良型というべきものがあることに気づきました。では次回はそんなところで・・・。

 

第17話  筆とペン   岩井笙韻

今日は短いぞーっ。
 筆で半紙の練習をしていくと、手本さえあればかなりバランスの良い字が書けるようになります。
 しかし、普段の手書きの文字、つまり、ボールペンや鉛筆の字がちっともうまくならない人がいます。展覧会の出品表を見ると、作品は素晴らしいのに、ペンで書かれた住所氏名など、全くの素人と変わりない人が少なくありません。どうしてでしょうか?
 確かに練習を怠っていると言うことが一番の理由なのですが、筆で書くときとペンで書くときとは全く異なるポイントがあって、このために、筆の字とペンの字が異質なものになるのです。
 種明かしをすると・・・
まだやめとこうかな。これから始まる『初学学者のための実戦講座』でやるとするかな。しかし、それでは参加できない人にはなんだかさっぱり分からないでしょうから、ヒントを上げておきます。

 ヒント
 筆を持つときには指はあまり動かないので、腕の筋肉で書くことになる。一方、ペンを持つときには指で書く。そうすると、腕と指では力の入る方向が違う。

と言うことです。腕の筋肉と指の筋肉では得意な方向が異なるのです。

 これがヒント。正解はお会いしたときに。
 だから、大きさが変わっても文字の雰囲気を揃えようと思ったら、一定方向への力の入れ方を学ばねばなりません。方向としては、右手で刀を抜くときの方向、試験の採点で○をつけるような方向。その事を念頭に置いて練習すれば、半紙五文字の練習が細字でも生きてきます。

 

第18話 BM対インスタントまたは『まぐれの一作』 岩井笙韻

さて、コーヒーでも入れましょう。どちらが良いですか。

   ブルーマウンテン
   インスタントコーヒー

 普通はブルーマウンテンですよね。味がよく分からなくてもインスタントコーヒーよりは良いはずだと思うでしょう。
 しかしですね。入れ方を間違えてしまったらどうでしょうか。どうも、名人の入れ方というものがあり、適当に豆を買ってきてもおいしく入れられるとは限らないようなのです(最も、一昔の話ですが、ブルーマウンテンの生産量よりも、日本のブルーマウンテンの消費量の方が多いということを聞いたことがありました!つまり、かなり偽物があるということ)。
 その点、インスタントコーヒーは良いです。なんと言っても、飲むときにそんなに期待はしないので。何か暖かいものが飲みたいと思うけれど、豆をひいたりするのも面倒、すぐに飲みたいと言うときにはうってつけ。少しくらい味が悪くとも間に合います。
 しかし、これは私がよく経験することなのですが、一年に一回や二回はインスタントコーヒーが異常にうまい日がある。少し前にコーヒー専門店で飲んだブルーマウンテンよりうまい!どうしてだろうか?いつもと同じインスタントコーヒーなのに。
 それはたぶん、インスタントコーヒーとその日の湿度、温度、砂糖の分量、自分の体調その他諸々が絶妙にマッチして最高の味に仕上がったとしか言いようがない。そして、その味を次の日に出そうとしてももうダメなのです。
 ここから出せる結論は、


   質が劣っても、条件させそろえば、質の高いものに負けないものが出来る


ということでしょうか。
 このことは書についても言えるように思います。習っていて、なかなか先生の手本のようには書けないのに、ある日突然、良いものが書けてしまった。まぐれか!その証拠にもう二度と出来ない!しかし、その書の素晴らしさ、とても自分が書いたとは思えない。
 稽古場で添削を受けていて、怒られてばかりいるのに、その時ばかりは先生が驚いてしまった。「もうこれ以上できないから採っておきなさい。」と、言われたことがあるでしょう。
 もしも才能というものがあり、自分に才能がなくても、才能がインスタントコーヒーくらいのものであっても、何かの条件が整うと、びっくりするようなものが出来るのです。反対に、才能のある人の字はいつもあるレベルに達しています。しかし、本当にきらめく条件がなかなか出来ないことが多い。普段の出来では、インスタントコーヒーのまぐれの一作に負けてしまうのです。
 あなたがブルーマウンテンかインスタントコーヒーかは実はよく分かりません。何となくインスタントコーヒーじみていてもある日突然飛躍する人もいるのですから。だから、才能があるかどうかに悩むよりも、自分が良い条件の下で書けるようにすることを考えたらいいでしょう(このことの先を考えてみると、自分が病気だったり、怪我をしていたり、あるいは心の悩みが絶えないような状態だったとしても、何かの条件がそろうと、予想も出来ないようなものが作れる可能性があるということにならないだろうか?)。
 でも、どうやったらその条件が分かるのでしょう?
そう言われてもよく分かりませんね。しかし、確かに言えることは、


   書きたいと思った文字があったら必ず書くこと

   書きたいと思ったときには必ず書くこと

   書きたくないときでも、5分でも単純な手習いをしておくこと



これを逃してはいけません。これが条件作りに大きな力となります。後は、どんどん書いていくと、ある枚数をこなした後で、これまでの自分の書とは全く異なる書に変身することがあります。いつそうなるかは分からないし、期待して出来るものではないのですが、書きたいものを沢山書くことがその変身を可能にすることは確かです。私も、何回か経験しています。
 実は、書は、『イメージを文字に託して表現する』というほど単純なものではありません。もっと遙かに深いものなのです。少なくても書が好きで習っているなら、まだ自分にも未知の領域があり、書に関わることでその領域が発見できるかも知れないという期待を持って進んで欲しいものです。

 

第19話  作品の鑑賞   岩井笙韻

さて今日は、私の神事の師、合田先生から伺った話から・・・。
美術館に行くと、長蛇の列を見ることがあります。かの有名な『モナリザ』が日本に来たときなど、それはもう大変なものでした。人数が半端ではないので、どうしても立ち止まってゆっくり見ることが出来ません。その時に感じるのは、動物園に行って、コアラやパンダを初めて見たときと変わらないなあ、ということです。そこで、周りを見回してみる。すると、モナリザもパンダも同じような人が見ているように感じてしまうではないですか!(ということは自分も・・・。)
 自分のことは棚に上げて、本当にこの人達に作品が鑑賞できているのだろうか等と思ってしまうのです。しかし、物珍しげに「あれがパンダだよ。」というのと、「これがモナリザか。」というのと実際にはどこが違うのでしょうか?その辺のところが今日の課題。
 私の師が言われたことをまとめてみると次のようになるのだと思います。
 ある時、あなたが映画を見に行ったとします。暫く前から見たいと思っていたのですが、なかなか時間がとれないのと、映画の前評判が良かったので混んでいるらしいと言うことを耳にしてこれまで足を運ばなかったのです。
 入ってみると・・・。今日は空いているようだ。中にはいると数名しか観ていない。しめた、と思います。これしか観客がいなかったら、少しくらい足を投げ出しても、おせんべいをバリバリ食べても周りに迷惑をかけることはないだろう。ラッキーです。何の問題もありません。そのまま映画を観て、少しお腹も一杯になって映画館を後にします。
 しかし、今度は映画でなく、サーカスだったらどうでしょう?
郊外の広場に建てた大テント。○○サーカスがやってきている。これも一度は観たいと思っていた。そこでテントをくぐり中に入る。すると・・・。


 そこには数人の観客しかいないのです。


 その時あなたは、映画の時と同じようにラッキーと思えるでしょうか?
舞台の中央では、まばらな観客を前に、ピエロが一生懸命面白いことをやっている。
その時、あなたの心には何かもの悲しいような、ピエロに申し訳ないような奇妙な気持ちに駆られるのではないでしょうか?


   まばらな客席から、楽しみにしていたサーカスを観る時、あなたの心には、

   理由を探すのが悲しくなるような何かが、こみ上げてくるかも知れません。

   (『神のみる夢』合田和厚)


 映画とサーカス、何が違うのでしょうか?
スクリーンは生きているわけではありません。そこにいかに素晴らしいドラマが流れていようと、そこでは今日も明日も同じものが放映されているのです。その事を、観るものは当たり前のこととして考えています。だから、途中で映画館を後にしても、あるいは眠くなって寝てしまっても、何の問題もないのです。
 しかし、サーカスは違います。舞台の中央のピエロ、そして、猛獣使い、皆観客に向かって何かを一生懸命表現しているのです。そこに生の<人>がいるのです。観るものは、テントをくぐった瞬間、その事を意識せずして理解してしまします。だから、もっと客が多かったらいいのにと思ってしまう。思わず大きな拍手をしてしまう。ピエロに申し訳ないような・・・。そして、


    その心をもって  作品を見るべきだ
    

というのです。
 目の前に人間がいて、その人に向かうとき、そして彼の方でもこちらを向いているとき、そこには必ず無言の対話、無言の交流が出来てしまうものなのです。美術館に行けば、書であっても、絵画であっても同じように多くの作品が展示されています。その作品一つ一つを前にして、私たちはまるで映画を観るように観てはいないでしょうか?しかし、もしも作品一つ一つにそこでピエロが演技しているように観ることが出来たら・・・。その作品の中に作者の生きる姿を見ることが出来たら・・・。そうしたら、言葉を交わしていなくても、ピエロと観客の間に無言の交流があるように、作品も多くのことを語ってくれているように思えるのです。
 今述べたことを、出来るだけ『名品』とされている作品で試してくださいね。そうしないと変なことも起こりえます。というのは、最低のこともあり得るからです。例えば、ピエロが、観客が少ないことでくさってしまって。適当にいい加減な演技をしたとき。今度は、いかにまばらな客でも、同情するどころかしらけてしまったり、怒ってしまったりするでしょう。実際に、良い表現をしている作品というのは少ないものなのです。テクニックは優れていようと、作者の心が作者自身にしか向かっていないような、我が儘なものを表現しているだけでは、その訴えはごく少数の者にしか通じないでしょう。
 でも、逆に考えると、それでも良いのかも知れませんね。いい加減なピエロの中に突然素晴らしいピエロが出来たりするのも良いじゃないですか。却ってその素晴らしさが目立って、心に残ることがあるかも知れません。
 このような心の持ち方を、心のレッスンだと思って是非試してください。慣れてくると、芸術作品だけでなく、身の回りの物の中にこれまで気付くことのなかった<訴え>を感じることもあるかも知れません。イス、湯飲み、あるいは衣服、それぞれ誰かが何かを思って作った物なのです。沢山の声が感じられるとき、私たちの日常の心の持ち方が少し変わってくるかも知れませんね。