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書のプロムナード1

1月14日  始まり、始まり(序文)   岩井笙韻

長らくお待たせいたしました。ようやく散歩を始められます。

ここでは、書の道を目指している、静心書学会の会員の方に、いろいろと参考になりそうな(場合によっては全く参考になりそうにない)、書にまつわるお話をさせてもらおうと思っていました。しかし、なにぶん私の散歩道は至る所にあるもので、内容は古今東西、上から下まで際限なくあります。それならむしろ、思いっきり拡げた方が却って面白いのではないかと思います。又、私たちの会の方以外にも立ち寄る方はいるでしょうし(立ち寄るように言っているからですが)、それを考えると誰を対象にすると言うことなしに、好きなことを言って歩いていこうと思うのです。

どんどん更新していきます。気の乗ったときは、月に何回も更新できるかも知れませんが、まあ、やってみないと・・・。

一応、月に一回以上は更新することを自分の義務にしています(そうしないと、年に一回しか更新しなくなる)。

又、話の内容があまりにマニアックになりそうなときには、『マニアの頁』として記載しますので、興味のない方はここは絶対に読んではいけません(本当はこの方が面白い)。

基本的に、他の書籍や、インターネットで調べられるようなことはあまり書きません。それから、この記事を読んで何か私の方に伝えてくださる方は、私の方にメールしてください。さてそれでは、スタート。

 

1月17日  第1話  書の数式    岩井笙韻

書とはどういうものかと聞かれることがあります。

それに対しては、いろいろな答え方があるでしょう。書く人により、見る人により、人の数だけ答えがあっていいのですが、芸術とか、芸(道)というジャンルで考えたときに、どのような位置に書があるかという点では、私は次の数式で表現できると思っています。


   書=(ピカソ+市川團十郎)÷2


書が個人的なものの発露であるという点では、絵画と同じです。よく、私は個性がないから、などという声を聞きますが、とんでもない話で、誰の生き方もその人だけのもの。他の人では代用がききません。ただ、なかなか自信がなくて、そのように思い切れないだけのことなのです。だから、あなたもピカソ。

ピカソを見ると、個性の固まりに見えますね。確かに、私にもあなたにもピカソのような生き方は出来ないし、絵も描けません。しかし、逆にピカソにもあなたの生き方は出来ません。書にもあなたなりの書があるのです。

しかし、芸術家の一生は、単に打ち上げ花火のようなものではありません。必ず、他の人に影響を与えます。それは、見る人に感動を与えると言うだけでなく、自分でも絵を描いたり、曲を演奏したりしてみたいという人、つまり何かを表現したいという人が出てくるものです。

でも、ピカソが絵の描き方を懇切丁寧に指導するなどと言うことは考えられませんね。逃げ出してしまうでしょう。実際、ピカソスクール等というものはありませんでした。又、二代目、三代目ピカソというのもいません(たまに猛者がいて、例えば、ダリには有名な影武者がいます。たまに、そちらの画いたものの方が良いことがあるそうで)。

その点で、書には、その技術などを伝える術があると思うのです。

だからその点で市川團十郎(有名な歌舞伎役者なら誰でも代入可能)。つまり、歌舞伎。

こちらの方は、何代目襲名披露というものがある。型を伝えていきます。それでいながら、何代目はどういう特徴があったなどと言われるのですから、没個性というわけではありません。

余談になりますが、『型の伝授』というのはすごいものがあります。まあこれは聞いた話ではあるのですが、能の世界で、駆け出しの者が、例えば<悲しみ>を表現しようとする。するとまずは、心の中で自分で悲しみを作って、それを形で表現しようとするに違いないのです。

しかし、師匠はそんなものは一笑に付してしまう。その代わりに、手首の角度が何度、指は中指をこの角度に保って、などと指導する。形のことばかり言って、心のことなど何も言わない。それで弟子は言われたとおりにやってみる。すると、これが見事な<悲しみ>の表現になる。そして、その型を通して逆に<悲しみ>の深みが理解できるようになると言うのです。

ですから、型を伝えるというと、個人の個性を無視しているように思う向きもありますが、中には、計り知れない智恵や力が潜んでいて、それが、個性の異なる人から人へと伝わり、様々な花となって開くのです。

上の数式は、そのようなものの表現として考えてください。


あなたの個性はかけがえがないという意味で、あなたはピカソ。

あなたの書はどこからか型として学び、又型として伝えていけるから、あなたは市川團十郎。


さて、ここからが問題です。

絵だと、内容としては何が画いてあるか分からないものも多い。しかし、書には必ず文字が書いてあります(尤も、これが書の古典派と前衛派とを分かつ分水嶺ともなるのですが)。又、その書かれた文字が誤字であったらいけませんと言うことになっている。

となると、型の継承の前に、文字を知らなければなりません。

でも、今度は、文字の<原型>というものは、不思議なもので、ありません。必ず、誰かの書いた字や、印刷された文字からそれを覚えていく。

初めから、良い姿の文字を覚えようと思ったら、子供に、良い書を見せるしかないでしょう。そして、それをまねてみる。

ここに、<手本>というものがクローズアップされてきますね。そこに何かを引き継ぐと言う、これまで述べたことが深く関わってくると思います。手本については面白い話題がたくさんあります。予定では次に手本に関わることを・・・。(予定は未定)

 

1月30日  第2話 <自由>と<型>    岩井笙韻

さて、手本の話をしよう・・・と、思いましたが、その前にまだ見ておきたいことがあります。

これは誰も一度は疑問に思うことなのですが、自分の思うものを表現するのにどうして、手本とか、型とか言うものが必要なのか。何でも自由に表現したら良いはないか、と言うことです。

しかし、具体的に見たら答えはすぐに出てきます。

もし、型にはまっているものが、型に束縛されないものよりも劣っているなら、俳句や短歌は文学的に、自由詩より劣っているでしょうか?具体的には何が画かれているか分からない前衛絵画は、どんな古典派の絵画よりも感動を生むものでしょうか?

どうもそうではないようです。今でも、ルネッサンスの絵画は見るものに衝撃を与えることがあります。

小学生に詩を書かせてみます。思ったこと、感じたこと何でも詩にしてごらん、と言っても、大半の小学生は首をひねってなかなか書けません。しかし、五七五の俳句の形式を教えて、そのスタイルに言葉を当てはめるようにして、俳句を作らせると、案外おもしろいものが出来たりします。型というものは、ものを生み出すきっかけにもなるようです。

人間は自由な表現を求めながらも、どうして型というものを残しているのでしょうか?

思うに、それは、人間が<肉体をもった心>のようなもので、生まれながらにして肉体という時間と空間に制約された存在であることから来ているのだと思います。

だから自分の表現も、五感という制約の中でしかできない。逆にどんなものも、自分の五感の範囲でしか捕らえることはできません。

もしも、蜂の世界に芸術があったら、人間には理解できないでしょう。モンシロチョウのあの羽の白さも、人間が見るから白いだけなのであって、蝶達の間ではもっと豊かな模様に見えているのです。

恐らくそのような肉体の制約が、芸術にも独特の型を生むのでしょう。

だから、前衛の発祥も<型破り>から始まりました。

ピカソが良い例ですね。十代の頃の作品を見ると、その写実性のすごさにはあきれるほどです。それが次第にあのような姿になっていく。まさしく型から入って、型を捨てた<型破り>です。

だから、あのピカソの描く人の顔は、なかなかまねが出来ません。ある時、ピカソの展覧会で、小学生の一団が見に来ていて、

「何だ、こんなもの僕だって画けるぞ。」

と、言っていましたが、実際にピカソのように画いてみてください。私も試しにやってみましたが、ピカソよりもまともになってしまいます。ピカソは十分に型を(言い換えれば、古典的な遠近法その他を)知り尽くしていて、なおかつそれでは表現できない思いを、あのスタイルで表現したのです。(個人的には、私は、ピカソの絵は、立体の展開図を同時に表現したものだと思っています。一人の女性を描くのに、横から、前から、上から見た姿を一つの面で同時に描くと言うことではないでしょうか。特にあの独特の表現は女性を描くときに目立ちます。その理由はたぶん、ピカソほど女性を愛したり、いじめたりした人はなかったのだと言うこと。愛しむときは、女性を抱きながら、「これほど抱いても、おまえの全てに触れられていない。」等と言ったのです(私の適当な想像です)。だから女性を表現するときにその全ての方向から(愛故に?)表現したくなって、あの様なものになったのではないでしょうか。おまえを、上から、下から、前から、後ろから、横から描いてやる、と言うようなことです。勝手な推測ですが。

脱線しかかりました。ここに名言があります。


  型をしっかり覚えた後に、<型破り>になれる。 

                      (中村勘九郎)



とにかく、人間は五感という制約があるのですから、表現もなんらかの型を通して行うしかない。心の発露は型を通じてなされる。

このようなことを考えておいた方が、手本の持つ意味を理解しやすいでしょうね。

 

第3話 あなたはCOOL?それともHOT?    岩井笙韻

いけません!まじめにスタートしてしまったら、どんどん内容を続けなければならない気になってきました。どうも、苦しくなってきます。これでは散歩にはならないように思います。だから、閑話休題のように行きましょう。どこかで又元の問題に触れてきます。
 では、今回はこんな風に。
 何かを表現するときに、様々なタイプがあります。猛獣のように爆発するタイプ。底知れず沈んで周囲には真空のような静寂が漂うタイプ。あなたはどちらでしょうか?
 この違いはスポーツを見るとよく分かります。
まず、極めつきのホット。
 写真家の篠山紀信が、珍しくオリンピックを撮影したときの話です。100メーター走を撮ることになったらしい。しかし、普段と違って対象がとてつもなく早い。それで結構苦労したという話の後で、何人もの走者にインタビューしたというのです。
 どんな走者が勝つのか?と。
すると、皆似たようなことを言う。身体能力では皆同じようなものだという。しかし、違いが生じるのは、自分の恐怖心に打ち勝てるかどうかなのだという。恐怖心?何の?
 それは、スタートして、50メーターほど走ったときに、走者ははっと我に返って、自分があまりの猛スピードで走っていることに恐怖心を抱くのだそうです。変な話だけれど、自分でも信じられないスピードで走っている。「うへえ、こんなに速く走っている!!」。 で、そこで恐ろしくなってスピードを緩めてしまったら負け。その恐怖心に打ち勝って突っ走ったものが勝ち。特に優勝するようなものは、ゴールを切って、周りから祝福の拍手を浴びている事でやっと自分に気がつくくらい自分を振り切ってひたすら進む者だそうです。自分の考えどころか感情まで振り切って走る!(笑い話:この文章をパソコンで打っているときに、次のように打ってしまいました。「勘定まで振り切って進む!」。)
 すごい話ですね。「芸術は爆発だ!」という岡本太郎の言葉を思い出します。スポーツも爆発だ!

 それで今度は正反対のタイプ。
 スピードスケートの清水宏保。彼はスケートの選手としてはとても小さい。小さい頃から喘息を持ち、それを治すこともあってスケート始めたらしいのですが、それとは別に、「そんな小さくては、とても大きい選手にはかなわない。」と言われたのが腹が立って、それで猛然と練習に励んだと言います。
 彼の練習には独特のものがいくつもありますが、まず、<ロケットスタート>。つまり、小さい者は出だしは良いので、それをもっと有利に展開するために、誰にも負けないスピードを急激に出す訓練です。
 さてその為にはどうしたらいいか?
まず、風の抵抗を最小限に食い止めるために、極端な前傾姿勢をとる。しかし、やってみると、邪魔な物があって、ある角度以上にはなれない事に気づく。
 邪魔な物?なんだそれは?
         答えは胃袋と肝臓!
 その為に、清水はとんでもないことを思い立つ。筋肉を鍛えて、前傾姿勢をとったときに、胃と肝臓をあばら骨の中にしまい込んでしまえばいいと言うアイデアです。それで実際、動くはずのない筋肉を随意筋に仕立て上げる。その姿勢があのスタイルです。
 次に、<蹴りの意味>。又難しいことを言うようですが。要するにこういう事です。清水と一緒に練習に励んだ何とかという選手がいて(彼も日本では本当に一流ですが)、その彼が言うには、同じ練習をしているが、自分は絶対に清水には勝てないんだという。どうしてかと尋ねると、例えば、屈伸運動を何百回か繰り返すとする。500回でも良いです。すると、自分は単に数えて500回をこなすのが精一杯だ。しかし、清水はその一回一回に全て意味を持たせているのだという。例えば、220回まではそのくらいの力でどこに力を入れ、それを超えたら支点を移動させる、とか。
 その事は、コーナーワークにも言えることで、このコーナーを回るには、どのような蹴りをどの位置でどの角度で、何回行う、と言う具合に、全て意識の元で行っているという。こんな事は誰にも出来ることではないのだそうです。
 清水は、絶好調の時を次のように言っています。
その日、一年に二三度あるかないかの調子が上がっていると思えることがある。その時には、出番を待っているときから、自分が卵の殻に包まれたような感じになり、周囲の音は全く聞こえなくなる。そしてその静寂の中でリンクを見ると、氷の上に金色のラインが見える。そのラインを一ミリも踏み外すことなく滑れれば、それが優勝なのだ、と。はずしたら、負けを意味する。
 どうですか。ここまで意識的に携わると言うことは!
さて、あなたはどっち?なんて言ったって、開いた口がふさがらないというもの。
 それでホット派とクール派と戦ってどちらが勝つか?、と考えてしまいたくなります。
 それは実は間違った問いなのです。正解は、勝つ者は、意識しながら猛獣になる者です。言い換えれば、完全にホットでありながら、それを見るクールな目を持ち続ける者、と言うことになります。
 それはそうでしょう。本当に我を忘れてしまったら、勝負の過程は完全に見失ってしまうから、反省する余地などはありません。どんなに、100メーター走の選手がホットであっても、実は些細な事まで意識には上っているのです。
 逆に、いくら清水選手がクールであっても、体はホットになりきっているのです。
 一言で言うと、


    自分に客観性を持てるかどうか?


と言う問題になるようです。
 では、書ではどうでしょうね。手本を通して、ある程度の型が分かると、暴れるように書くことも出来ます。実際、私が見た中国人は目にもとまらないスピードで書いていました。しかし、それでも、基本をはずしているようには思えなかった。逆に、基本が身に付いているから奔放に書けるのだと思います。
 そうなると、やはり、基本を身につけるにも、手本を見取り、模写するにも、又その結果を自分で判定するにも、この<客観性>が問題になるのではないでしょうか。
 客観性には面白い問題があります。

 

第4話 静心書学会の書    岩井笙韻

客観性そのものを語る前に、私たちの手本を少し客観的に見ておきましょうね。

 静心書学会の書を語ると言うことは、とりもなおさず、父、岩井韻亭の書を語ることになります。その後で、私や弟(秀樹)の書と言うことになるのですが、息子である私たちはまだとてもとても、発展途上と言うことで、その書についてどうのこうのと言うまでいっていません。
 だから、まず、会員の皆さんも父の書からどんなものを学んでいるのか、それを言葉にしたらどうなるのかを確認していただきたいと思うのです。
 単刀直入に言えば、岩井韻亭の書とは、『姿の良い書』ではないでしょうか。奇をてらったものはなく、非常に基本に忠実な<姿>を持っているのです。
 それは師、青山杉雨先生の姿の良さとは又別のもので(確かに青山先生のある面を継承していることは間違いないのですが)、又その前の師、若海芳舟先生とは全く別のものです。
 これは独特の空間感覚から来るものと思っています。
 私は小さい頃、よく父に、絵を描いてもらいました。初めは電車、飛行機など、ありがちなものが多かったのですが、そのうちにつまらなくなってきて、三輪車描いてとか、虎を描いてとか、幼いながらもなかなか難しいと思われるような注文をしました。ところが、どんな注文をしてもすぐに何でも描いてしまうのです。その書かれたものは幼心にもとてもうまいものに見えました。
 今、三輪車を描こうとしても、どこがどうなっているのかよく分からなくなってしまいます。それをいとも簡単に描いてしまうのはやはり空間感覚が優れていると言うことではないでしょうか。実際、父は小さい時は絵描きになろうと思ったこともあったようです。

 又、広い空間を視覚に納めることも得意なようで、実際にあったことですが、審査の時に、50人の審査員の中で何人が手を挙げたかを一瞬で数えることが出来ているようでした。
 又、こんな事もありました。これも私が小学生の頃でしたが、父が頼まれて、名刺に、実物大の文字で名前を書いていました。「よくそんな小さな所に、曲がらないで字が書けるね。」と言うと、父は、「何も書いていない名刺をじっと見ていると、書くべきところが白く浮かんで見えるからそこに字を置いていけばいい。」と言っていました。
 これらのことを総合してみると、父の書は、文字、文字列、それを取り囲む空間、それらの全てのものへの敏感な配慮から来る書のように思います。
 まず、その事を端的に表しているのは楷書でしょう。私の見たところでは、父は淡々と書く楷書の名人です。そして、父の持論は


「一つの書体に傑出しているものは他の書体にも傑出している。」


と言うこと。確かに、楷書はもとより、行書、草書、隷書、調和隊に至るまで、姿の良さは変わりません。
 しかし、私は、そうでないことも多いと思うのです。つまり、ある書体に特に傑出している書家というものも多いのではないでしょうか。だから、父がそのように思うと言うことは、書を空間感覚によって捕らえているからに他なりません。空間感覚で捉えたら、書体による別はないも同然なのです。
 と言うことは、書を学ぶものが手本にするにはこれほど恰好のものはないのではないかと思います。
   しかし、私がこのように思えるようになるには時間がかかりました。姿が良いと言うことは、アクは少ないのです。ですから、中学生、高校生の頃展覧会に行ってみると、もっと強い個性の作品の方に惹かれてしまったことを覚えています。しかし、その後、長い間にわたって多くの作品を見続けてみると、下手をすると、個性に見えるものは一過性のものかも知れない、と思うようになったのです。 実は、矛盾するようなことを言うようですが、父の行草は結構個性があります。何しろ、一目見たらそれが父の作品であることが分かるのですから。ただ、手本として模倣しにくいというものではない(いくつかのポイントがあってそれを理解したら案外似て来ます。それはただでは教えません。)。又、応用範囲は広いものです。この応用範囲が広いと言うことは、手本としての優位を示しています。書を学ぶものは、ただ人まねをするために学んでいるわけではなく、自分なりの字を書きたいと言うところに収斂するものだからです。 静心書学会で書を学ぶ方は、なんと言っても、この父の持つ空間感覚を身につけてください。
 勿論、まだ課題はあるのです。そして、それは次の代の私たちの課題だと思います。
 加えて、これは、静心書学会が続く限り忘れてはいけないことだと思うし、伝統にしたいことの一つなのですが、それは、<文字を大切にする>と言うことです。
 文字を大切にすることに関しては、やはり父は優れていると思います。それは、父が書くところを見たらよく分かると思います。書を慈しむと言うよりは文字を慈しむと言った方が適切な何かです。およそ、文字を自分の下に置くという態度とは正反対のものです。さあ、このあたりをヒントにして、又目を新にしながら書を学んでください。

 

第5話 客観性! 明石家さんま    岩井笙韻

ご存じの方も多いと思いますが、私は十代の頃から、人の運命などについて思うことが多く、八年間も占いの学校に通ったり、二十代からは様々な修行を続けてきました。
 今、修験道(山伏と言えば分かるでしょうか)の行をしています。別の言い方では<神事>(かみごと)と言います。書ではなくこちらの方の私の師は合田和厚(ごうだやすひろ)と言います。
 今からの話は、合田先生の話を元にしているのですが、客観性についてこのように考えてみたらいいと思うのです。

 NHKの素人のど自慢。誰でも一度は聞いたことがあるでしょう。中には毎回見ている方もいるようです。
 しかし、マニアは別として、長い間聞いていると、いい加減テレビを消したくなってしまいます。なんだか辟易としてしまうのです。でも、どうしてでしょう?
 よく、歌には感情移入が必要だという言葉を耳にしますが、どうも原因はこのあたりにあるようです。素人の歌は、個人的な思い入れが強すぎて、それで聞くものが嫌気がさしてしまうのではないでしょうか。カラオケで、聞いていられなくなる歌も、ただ音程がどうのこうのと言うよりも、この感情のなすりつけに原因があると思うのです。「おまえが好きだ~、愛してる~」とマイクに怒鳴られたら大抵は逃げ出したくなってしまいます。
 素人は、歌うことで自分の感情を発散すればそれでいいと言うところがあるのでしょう。鬱憤晴らしのカラオケなんて言うこともあります。
 しかし、プロは違います。ステージのプロの目的は、今この歌を聞きに来てくれているお客さんが、満足すること、そして、もう一度足を運ぶ気になってくれること、更には自分のCDを買ってくれることです。つまり、もうけなければ商売は成り立ちません。
 そうすると、今の自分の歌や表情が、お客さんにどのように受け取られているかを、冷静に理解していなければなりません。
 このことは何にでも言えることで、『お笑い』でも同じです。
駆け出しのコント、登竜門での芸を見ると、よく分かります。激しく奇想天外なコントは初めは笑いを買います。しかし、それが笑いを誘うために無理をしていたり、あまりに感情をむき出しにしていたりしたら、見ている方は醒めてしまったり、反対に同情して拍手をしたりしてしまうでしょう。そして、挙げ句の果てには、厭きられてしまうことになります。
 ここで、例えば長い間、一つの番組を受け持っていたり、引っ張りだこのように長年活躍している人たちを見てみましょう。例えば、

  明石家さんま  タモリ  紳助  

 長い間、仕事をし続けられると言うことは次のことを意味しています。

  1 芸達者で面白い。
  2 一緒に仕事をしているものに人気がある。

 <1>は当然のことですが、問題は<2>が欠かせないと言うことです。一緒に仕事をしているスタッフが、もう金輪際コイツとは仕事をしたくないと思ったら最後です。どんなに才能があっても同じメンバーで仕事は組めないでしょう。やはり、仕事仲間にも評判がよくなければいけません。何しろ、プロはその道で飯を食っているのですからね。八方美人だ何だと言われても、仕事を失うわけには行きません。初めはぺこぺこしているようでも、次第に周りを引き込んでいくものです。
 私の師は、さんまやたけしが、どんなに転げ回って馬鹿なことをしているようでも、目は醒めていると言われていました。  つまり、自分を見る目、他の者から見て今の自分がどのように映っているかを見定める目を持っていると言うことです。それがあるから、周囲の者に合わせたりしながらも、周りを引き込んでいけることになるのです。
 途中で番組を降ろされてしまうなどと言うのはもってのほかです。まあ、それも、先のことを計算してのことなら、プロ中のプロと言えますが、なかなかそう言う具合にはいかないようで。
 このことは、どんな世界にも言えることです。例えば、歴代の宗教家にあっても、空海や日蓮はそのようなことに長けていたと思います。様々な伝説を残した人にはこのような客観性が必ず見られます。
 さて、書の世界です。これは難しいですね。書の世界で客観性を持つと言うことはどういう事になるでしょうか。
 良いことを言っているけれども、作品はどうも・・・、と言われたらダメです。これはまず除いて。
 良い作品は書くけれども人としては最低だ、というのはどうでしょうか?およそ、その書家の弟子にはなりにくいですね。人として変わっているというのなら良いかもしれません。変わっていても、それが悪条件を生まなければいいのです。と言うことは、「人として最低だ」と言われると言うことは、客観性がないと言うことでしょう。先の『型破り』の話ではないですが、マナーを知らなければ非常識にはなれません。知らない人は、一種の『不常識』なのです。 実はこのあたりの問題は、簡単には納められないところがあって、それは改めて考えてみたいのですが、まず、客観性が問われるのは、手本を見るときだと思うのです。
 多くの初心者にとって、手本を与えられても、ほとんどその90%は見破ることが出来ません。手本を見ながら模写すると言うことは、目と腕を鍛えていく大きな手段なのですが、実際、これを読まれている方も経験済みのことでしょう。


  「大きすぎる」 「中心がそろっていない」


 いつも言われていませんか?
 まず、はじめは、半紙の手本を見てまねしようとしても、大きくなりすぎて半紙に収まりません。特に、教書雑誌を手本にすると、実物大よりも小さめに出来ていますから、ますます大きくなります。

 昔、高校生の頃、私は青山先生の半紙の手本を見る機会にぶつかりました。雑誌に掲載された手本はA5位の小さなものでしたから、それを見て早速書いてみました。しかし、半紙に五文字、一行目は三文字ですが、どうしても、二文字半しか入りません。入ったと思うと、文字と文字の空間がゼロ。これが、何枚書いても同じなのです。
 そこで、方眼紙を買ってきました。当時はまだコピーを取る等という高級手段はなかったので、その方眼紙に手本をトレースして、それを半紙に拡大するとどのような配分になるのかを見ることにしたのです。すると、なんと、手本の字の小さいこと小さいこと!その割合に沿って、自分の字を置いてみると、貧弱そのもので話になりません。
 この時、手本の持つスケールというものを初めて理解しました。同時に思ったのは、手本に似せるには今のところは、少し大きめに書かないと対抗できないと言うことでした。その事を理解してから書き進めると、それなりに書けて、父が見てもまずまずのものになったようでした。
 ここには、客観性がどのようなことを意味するかと言うことのヒントがあるように思うのです。
 手本と格闘しているあなた!まず、客観性を養うために次のことを試してください。半紙の手本と言うことにしましょう。


1 手本における大きさの配分に目を向ける。この配分で書く。
手本をコピーしてそこに縦横、方眼紙のように線を引いて、具体的な配分を測る。この時は線が弱くても、ふるえていても良しとする。鉛筆でもよし。手本を下敷きにして、形をトレースし、それを下に敷いて自分でその大きさの通りに書いても良し。

2 手本の文字の、どこに穂先が通っているのかを赤線で引いて見る。そしてその通りに書いてみる。この場合は、形が崩れても良しとする。


 まずこのどちらかをやってみてください。一度に二つは無理かも知れないので、今回は<1>、次回は<2>とか分けても良いです。又、注意するべき事は、


A 手本は半分に折って、自分の半紙の片側に置き、手本と自分の半紙が完全にそろうようにする。

B 手本を見る回数を五倍以上に増やす。じっと見るのでなく て、チラッと見る。それを何回も繰り返す。一文字に10回以上 見る。


 長くなりましたので続きは次回。これらのことについて、もっとコメントがあります。

 

第6話 手本を見抜く    岩井笙韻

さて今回は続き物。手本を見るときの注意点を挙げてみましょう。まず初めに、『手本を見る』と言ったって、じーっと見てるだけでは何事も起こりません。目的が無くてはダメ。目的は、手本に出来るだけソックリに書くことです。
 これは、当たり前のことですが、とても大きなポイントなんですよ。例えば、ただ手本をもらって眺めていただけでは、よほどの熟練者でないと、その手本に込められたものは何も解読できません。そのまねをしようと手を動かし、筆を動かしてみて初めて様々なことが見えてくるのです。
 そして、その時に、欠かせないいくつかのポイントがあるのです。その内の二つを前回乗せました。復習してみると、


A 手本は半分に折って、自分の半紙の片側に置き、手本と自  分の半紙が完全にそろうようにする。

B 手本を見る回数を五倍以上に増やす。。じっと見るのでなくて、チラッと見る。それを何回も繰り返す。一文字に10回以上見る。


 この二つは、手本とうり二つに書くには欠かせません。<A>の方は、第一に、半紙の位置をそろえると言うことですが、見比べる目が、水平に動くための工夫です。半紙が不揃いで目が斜めに動くと忠実な模写は出来ません。この状態で手本と自分の書きつつある文字を見比べてみて、目線が斜めに動くときは大体において、既に手本よりも大きくなっているものです。  又、第二に、手本が離れすぎていると、手本を見てから自分の半紙に目を戻すまでに手本の記憶が失われます。慣れてきて、画像の記憶力が出来てくると良いのですが、それまでは、出来るだけ近い方が良いのです。画像の記憶は一秒経ったら無くなると思ってください。
 これと関連して<B>です。
二つのものを見比べるときに、目を何回も往復させることが違いを見つける最も有効なやり方です。しかし、これも慣れないと出来ません。どうなるのか?まず目を速く動かすことすら出来ず、強引に目を動かすと気分が悪くなります。
 出来ない人は、目を開けたまま、上下左右、斜めと目を出来るだけ早く動かす訓練をしてください。これは速読にも有効です。特に肝臓の悪い人は苦手です。又、目の筋力に偏りがある方はどちらかの方向に苦手が出ます(余談ですが、これを繰り返すと、肝臓は強くなります。老眼の予防回復にも。)
 それから、初登場の<C>。


C 手本を見ながらも、手を休めずに動かすようにする。


 初心者はこれが出来ないんですね。手本を見ると手が止まってしまう。楷書は良いですが、草書になったらそこいら中にこぶしが出来ます。そんなこと言ったって、無理に決まっている?いや、そんなことはないのです。人間は基本的にながら族です。そうでないと、生活できません。テレビ見ながら食べてるでしょ。運転しながら携帯かけてるでしょ(あっ、これは違反だ)。
 ちょっとの訓練ですよ。
でも、それでも苦手な人はいそうですね。では、そう言う人のために。
 目つきを変えてください。何だ、又変な事言うのか?まあまあ。これは字が大きくなりがちな人に共通しているのですが、そう言う人は、手本を見るときにその一部に集中しすぎているのです。
 例えば、車を運転していて、人が飛び出すかも知れないから注意しなさい、等と言われますが、まさかいつ飛び出してくるかびくびくしながら運転するわけにはいかないですよね。飛び出したときにとっさに判断して除けられればいいのです。しかし、どこから出てくるか分からないのだから、あらかじめどこかに注意を向けていることは出来ません。それで、とっさに判断が効く人は何が違うのか?目の使い方が違うのです。
 3D知っていますか?よく新聞に出ています。何が何だか分からないような絵が描いてあって、ある種の目の使い方をしてみていると、その絵から立体的な画像が出てくるというあれです。訳の分からない絵から立体画像が浮かび上がったときは感動ものです。その目つきですよ。この目の使い方には2種類あるのですが、特に、無限遠にピントを合わせる方の見方。どこにも注視していないのに、絵全体がどこまでもくっきり見えます。その目は武道でも使いますし、精神世界が好きな方にはこんな風にも言えます。人から出ているオーラを見るときの目つきだ、と。
 武道が分かりやすいでしょうか。『八方目』等とも言いますが、空手などで、相手に対しているときに、相手がどこから攻撃してくるか分からないのだから、足とか手とか、特定の部分に注意を向けるわけにはいきません。その時に、相手全体をこの目で見るのです。すると、不思議に心も落ち着いて、相手の瞬間的な動きが見えるようになります。ただ、それに対して、こちらが反応できるかどうかは日頃の鍛錬と言うことになるのですが。
 長くなりましたが、この目を練習してください。文章では難しいから、会員の方には直接指導になりますね。
 まずこの目で、手本、自分の半紙、全体を俯瞰する。そして、その気分で目を早く動かして見比べながら書くのです。
 当然、初心者は手が震えたりしますが、目が出来てきます。腕は悪くてもまず目が出来てこなければ進みません。
 前回の<1><2>は、筆を思うように動かすための練習です。筆の扱いはいくら目がよくても、回数による訓練が要ります。
 目が良くて、筆が思うように動いたら、臨書は楽しくなります。そして、そこで臨書の意味が見えて来始めるのです。一度に全部練習するのも大変ですし、必要のない方はそんなものかと思って読み飛ばしてくださっても結構です。でも、どれかに挑戦してみてください。何か分かることがありますよ。

 

第7話 私の頭の中の無限のおしゃべり    岩井笙韻

『私の頭の中の消しゴム』見ましたか?次第に記憶が失われていくヒロイン、ソン・イェジン、なかなかきれいですね。『四月の雪』も良かったですけれど・・・。
 おっと、そんなことを言ってる場合ではないのです。だいぶ間が空きました。
 今日は、書を創作の方に寄せてみた話です。
 書を、美術館で鑑賞するというのは昔からあったことではありません。誰かの書を美術館で見ることが出来ると言うことは便利には違いないのですが、その功罪もあります。
 まず、良いところは、大作が可能になったと言うこと。それも沢山の書家の大作が一度に見られます。
 では、具合の悪い点とは何でしょうか?
 まず第一に、大きな書作品が、一度に全部見渡せることです。
 えっ、それの何が悪いのかって?いや、悪いとばかりは言えないのですが、そこで失われそうなことがあるのです。まあとにかく、大きな部屋でいくつもの作品が同時に見られるようになる事になったわけですが、その為に大きな紙面に対して、書家が絵画的な考えを持つようになったに違いないのです。
 具体的に言いますと、第一印象の大切さを考えざるを得なくなったということです。
 絵の場合にはそれを正面から見たときに、どこから見るかは自由です。勿論、書の場合もそうですが、書の場合は文章でもあるので、文章の初めから見る(読む)のが元々の見方でした。特に、巻子・帖の場合はそうなるでしょう。又、狭い部屋で書かれた者の場合はやはり、書かれた順に見ていくと思います。
 書かれたものにはリズムがあります。それが、文章に沿った形で展開するところが絵画と異なります。しかし、一目で審査を通過する作品群の場合、このリズムは少し異なったものになります。審査員の受け?ねらうというのは、良い言い方ではないのですが、やはり作品をより二次元的な見方で作ると言うことになるでしょう。一目でぱっと見て良いもの。
 しかし、古典を見ると、書かれた文字を追っていくときに、そこに作者の息づかいがあり、そのリズム、筆使いを追体験することも書に特有の鑑賞の仕方なのです。
 よく、この作品に手本があるかどうかすぐ分かる、と言う声を耳にしますが、手本にこだわった作品にはこのリズムが希薄なのです。私は個人的には、手本があってもなくてもどちらでも良いと思っています。中には手本と一体になるくらい書き込んでいる内に、独特のものが生まれてきて結果としては手本とはまるで異なるものができあがったと言うこともあるからです。
 この<リズム>は、なかなか自分でもよく分からないもので、自分の身体を通して現れてくるものです。しかもやっかいなことに、それは、撰文によって、又、書体によって、又紙や墨によっても異なった現れをします。
 逆に言えば、ある意味では自分、と言うより、自我と言った方が適切ですが、自分の意識下から湧き出てくるもので、そのものとして拾い出すことは出来ません。しかし、そのリズムが、無意識のうちに墨量やスピード、回転のあり方、文字の間隔ばかりか文章まで選ばせるものだと思います。
 書の才能がある人というのは、この部分で文字を書いていくことが出来るのだと思います。
 では、逆に才能のない人というのはどんな具合なのでしょうか?これを一言で言うと、そのリズムを身体を通して発現しにくい人です。このリズムは、誰にでもあるのですが、それが書として現れる人とそうでない人といるのかも知れません。それが書家としての才能の有無と言えるのかも知れません。
 でも、今、書が好きで習っている方は、皆それぞれ才能があると思います。好きこそものの上手なれ、と言うではないですか。
 でも、なんだかいくらやってもうまく行かない、と言う人も多いですね。では、こういう場合、書くときに何が具合が悪いのでしょうか?
 これは自分の経験から言うのですが、その時に、私の頭の中には、沢山のおしゃべりがあることに気づいたのです。集中していないのです。言い換えれば、集中しているようでいて、そのおしゃべりの方に気持ちが少しは取られているのです。雑念と言うでしょう。しかし、雑念というのも言葉です。声なき言葉なのです。書きながら、今日あった出来事、お腹が空いた、今後の予定、腰がいたい等々。
 今でも調子が悪いときは、このおしゃべりが出てきます。しかし、その事に気づいたら、すっと穂先の方に気を向けます。紙との接点。墨、筆、紙が自分の手を通してである場所。そこに意識を向けるのです。慣れない人にはこれが続きません。又、天性の才能のある人にはこんな事は当たり前のことですが・・・。
 実は、別に作品製作中でなくても、私たちの心(あるいは脳?)は、休むことなくこの手のおしゃべりを続けています。試しに何も考えない時間を作ってみてください。じっとしているとその様子がよく分かります。少しでも空白を作ると、心はくだらないこと、意味あること、思い出話などを脈絡無くどんどん話し始めます。内容に統一はありません。私たちの心を丸一日、グラフにとってそこに表れる言葉を映像に出来たなら、自分でもあきれるほど無駄話に浸っているのです。しかもその様子が、同じ世界に生きている人々に結構共通のパターンなので、そうしたおしゃべりが、私たちを同じ世界の住人として安心して暮らしているのではないかと思っています。
 しかし、芸術家とか宗教家というのはこの無駄話(それはあたかも、あらゆる無駄話が手を取り合って、無意識下からやってくる声を妨害しているようにも思えるのですが)に裂け目を見つけて、ただ惰性に満ちた世界に、動きをもたらす異物をもたらすことを使命にします。先ほど、天性の才能のある人・・・と言う言い方をしましたが、逆に頭の中にこのおしゃべりのない人は世渡りがうまく行きません。その理由は結構学問的になりますので、機会があったら説明しますが。だから、いつも密室に澄んでいる芸術家よりも、普段を他の人たちと平然と暮らしているような芸術家が実は毒を持っているのです。世間が犯されている催眠術(最もこれはたとえ話で、それが悪いと言っているのではありません。『世間で暮らす』というのは、実はこのおしゃべりを心の中で反復したり、実際に言葉にして生きる事なのですから)を見抜いていて、自分も催眠術にかかっているふりをしているのですから。
 このことについては、昔から宗教では気づいていることで、座禅をしていて初めに出てくる雑念妄想はこれです。
 そして、一時的にでも、その声を遮断するときに、身体の底の方からリズムが響いてきます。
 音楽を聴きながら書く人もいるようです。しかし、音楽はそれ自体のリズムがあるので、危険な場合もあります。よほど自分に合っていないと音楽に引っ張られてリズムが変調を来します(このことはいずれ語ることになる『入魂』と密接な関係にありますが、それは又その時に)。
 ちょっと脱線しますが、音楽と書のコラボレーションというものが最近あります。書家が音楽をバックにその音楽に合わせたように書くというもの。まあ、こういうのも新しい指向ですが、今言ったように、本来の書のリズムは内在的な、音のないものなので、外からの音楽で書くというのはあまり感心しません。
 書展は音が要りません。バックグラウンドミュージックは邪魔になります。巻子に書かれたものを眼でなぞっていくときに、そこにリズムを読み取ることが出来ますが、そのリズムは単に音楽として表現するものとはまた少し異なっているように思えるのです。
 ぱっと見が良くなくても、又、紙面の中で全体としてはバランスが崩れていても、その内在のリズムを持っている作品はあります。しかし、そう言う作品はなかなか展覧会には登場できなくなってしまったように思うのです。点字を読み取るようにそのリズムを追いかけるというのも、作者と見るものとの本質的な対話だと思うのですが。

 前に、スケートの清水選手のことを書いたことがありますが、自分が卵の中に入ってしまって、外からの声が聞こえなくなる、と言うのも極度の集中により、わき起こるリズムそのものになること、これの最高の状態を示しているのだと思います(ついでに言うと、私たちが自分では出来もしないのにスポーツ観戦が好きなのは、単に誰が勝つかが楽しみなのではなくてアスリートとリズムを共有する楽しみがあるのではと思います)。
 これは、しかし、心身が疲れ切ってしまうくらいに作品に没頭すると自動的に現れることもありますし、集中した臨書の時にも心は静かになります。又、めちゃくちゃに練習量を増やしたときにもそうなることがあります。あるいは、沢山の枚数を書いて、もうダメだと思い、墨が余っているからもう一枚、と思って書いたときにそのリズムになることがあります。
 もしも少しでも似たような経験を持ったら、その事を良く覚えておいてください。一度起きたことは二度起こります。
 そのリズムが個人のものなのか、それとも、別の所からやってくるものなのか、それは大きな問題なので即答は出来ませんが、私なりの考えはあります。それは又いずれ。

 

第8話 入魂の真実    岩井笙韻

今日は変わった話です。
よく野球でも、『一球入魂』と言う言葉を耳にします。ピッチャーが向かってくる打者に対して、渾身の力を込めて投げ込むとき、このように言われます。
 しかし、本当の入魂と言うことについては知っている人はほとんどいません。実は、書の作品にも入魂されているものとされていないものの違いはあります。技術的な見方をすると、この違いは分からなくなります。
 もしも、作品が入魂できているかどうかで判断して、展覧会の入落を決めたら、恐らく雰囲気ががだいぶ異なって来るかも知れません。ただ、会場そのものが居心地の良いものとなる保証はありません。もしかしたら、非常に変わったものになる可能性があります。 さて、そんなことを言っても、もっと具体的に説明しないと何が何だか分かりませんね。
 私は、この『入魂』と言うことに関しては二つのことがあると思うのです。
 まず分かりやすい方から。
 もう大分前のことになりますが、禅の大森曹玄の本に書いてあったと思うのですが、禅宗の名僧の書いた書を墨跡と言いますね。有名な墨跡を見てみると、そこに共通して、墨の輝きや、線の強さ、凛とした雰囲気が感じられます。そこで、実験をしてみたとのこと。まず、修行を十分にこなしている僧侶に墨をすって『一』と書いてもらう。次に、その寺に見学に来た旅行客にも同じ墨、同じ筆でやはり『一』と書いてもらう。出来上がったものを比べてみると、文字は一ですから、そんなに形に違いはない。まして、旅行客は前に書かれたものを意識して書いているから形は似ています。しかし、その書から感じられるものは全く違う。僧侶の書いたものは、白い紙の上に『一』がくっきりと浮かび上がっている。それに比べて、旅行者の方はなんだか墨の色もぼけて、ふにゃふにゃしている。
 その違いが何であるのか、実際に書かれたものを顕微鏡写真で拡大し、墨の粒子まで見えるようにしたのです。すると、僧侶の書いたものは、墨の粒子が筆の動きと同じ方向にきれいにそろっている。それに対して、旅行者の方は、墨の粒子がバラバラな方向を向いていたのだそうです。確か、本にもその写真が載っていました。
 つまり、『心』とか『意志』のようなものが、墨の粒子を一定方向に向けているわけです。一般人の方はそこまで意志(あるいは念)が強くないので、もっとはっきり言えば集中力、注意力散漫なので墨の粒子がついてこない。この違いがくっきりかぼんやりかの違いとなるわけです。分かりやすいですね。
 一球入魂だってこのように考えたら理解できます。打者を空振りの三振に打ち取るために、キャッチャーめがけて繰り出す強力な、意志を持った球!当たったら痛そう。その威力に打者の心も負けてしまうのかも知れません。
 この状態がいわゆる『墨気が澄む』と言うものです。意志が混じりけなくストレートに表現されたもの、とも言えるでしょうか。
 そうなると、これは宗教家でなくても、集中力がある人なら、同じ結果が得られるのではないでしょうか。特に、名だたる書家となれば、寝ても覚めても書に取り組んでいるわけですから、筆を持ってさっと書けば、同じようなものが書けると思います。断っておきますが、墨気が澄んでいると言っても、その書いた人の性格が澄んで清らかと言うわけではないですよ。変人なら変人に徹していることがシンプルさを生むわけですから、品格のある人を想像したら大抵は間違います!  ただ、書家の字と墨跡との違いは、技術的な問題はあると思います。墨跡には書の技術としては稚拙なものもあります。だから印象は異なります。尤も、それが却って木訥な良さに見えると言うこともあるのですが・・・。
 と、ここまではまだ常識で理解できることです。ここからが本番。第二の領域。
 ここで話が変わりますが、小説や漫画で名作というのがあります。その中には、とんでもなく長いストーリーを持ったものや、推理小説だったらこんな結論を初めから考えて書いているのだろうか、と思うようなものも少なくありません。ここには共通のことが言われています。
 まず、漫画から行きましょう。ジョージ秋山の『浮浪雲』、現在単行本で80巻を超えている超長生きの漫画。ところが連載からもう30年以上経っているのに、少し前に見たら、絵のタッチは変わっているけれど、登場人物の年齢はあまり変わっていない!成長せずに30年!(もっとも、私が見たのは五年くらい前だからその後変わった可能性もある。無いと思うけど。今度本屋で立ち読みして確かめる予定。)内容は、どちらかというと大事件が起こったりするよりも日常の出来事が多い。それで30年もっている!いくらでも続きそうです。
 ジョージ秋山は昔、物語性を持たせたものが途中で進まなくなって挫折したこともありました(これは永井豪も同じ)。ストーリーを先に考えるとどうも頭が優先するようです。では、『浮浪雲』は何が違うのでしょう?たぶん登場人物が先に生まれたのだと思います。登場人物があるとき漫画家の頭の中で奇跡的な組み合わせで生まれたのです。そしてそれを描いてみた。そうしたら、次からは登場人物達が勝手に動いて物語を作り始めた。漫画家は動きたがっている登場人物をそのようになぞればいいのです。何しろ勝手に動いてくれるのですから。もう、構想とか予定なんてものではない。そこに、人々が生まれてしまったのです。つまり、命が宿ったわけですね。
 今度は、小説に行きましょう。ホラーの大御所、スティーブン・キング。恐ろしくも面白い小説が山ほどあり、皆さんにお勧めのものもたくさんあります。又、沢山映画にもなっている。一例を挙げると、

『キャリー』
『シャイニング』
『IT』(ETではなし。イットと読む)
『痩せていく男』etc

 『シャイニング』等は本当に怖い。主演、ジャック・ニコルソン(そう聞いただけで怖そう。本人が妖怪っぽい。又、この作品にはキューブリック監督の別作品があるから注意)。冬、雪に閉ざされ、春までは山を下りることの出来ないホテル、そのホテルの、冬だけの管理人をすることになった家族に起こる惨劇。ヒエーッ。
 ところが、このキングさん。時にすごく人間味溢れる物語を書く。これが又素晴らしい。昨人の暮れに見た何かの雑誌で、ビデオ100選のトップにランクされた『ショーシャンクの空に』。絶対おすすめ。
 しかし、これから挙げるのは、それに優とも劣らない『グリーンマイル』。グリーンマイルとは実は電気いすに向かう廊下の絨毯のことなのだが、話はなかなか面白い。ホラーでは全くない。それで何でこの小説(映画も)を挙げたかと言いますと、この小説は文庫本(向こうではペーパーバック)で六分冊になっていて、毎月一冊ずつ発刊したものです。その序文に書いてあったのだが、第一巻を刊行した時には、まだ筋が決まっていなかったというのです。見込み発車と言っていたと思います(自分の倉庫にしまい込んでどこにあるか分からないから、又立ち読みで確認しなければ)。
 この場合でも、主人公達がよってたかって物語を作り上げているようなのです。それを小説家は書いていくだけ。もっと正確に言うと、作者の頭の中に何となくアイデアが浮かぶ。それを書いてみる。<浮かんだアイデア>と<描かれた・書かれたキャラクター>、この二つが絶妙に繋がるときがあるのです。その時に、そのキャラクターは命を持つことになる。それは比喩ではありません。本当に命をもって主張を始めるから物語は作家の手を離れたように、どんどん進むことになるのです。  最近の漫画では『ワンピース』がそれだと思います。ちょっと登場人物が多すぎるようになってきましたが・・・。
 これを『入魂』と言います。
だから、このように進み始めたら、筋は思うように行きません。ある意味では、出来の良い作家というものは、そうして命の吹き込まれた主人公達の手綱をうまく操っているとも言えるかも知れません。このあたりのことは何とも言えないことで、前にも言いましたが、作家は必ずしもそのストーリーの終わりを予測して書いているわけではないので、書いている内にそれが<自分の>アイデアで展開しているように思えると思います。だから、「書きました」と言うことも言えるし、「書けてしまいました」と言うことも出来るのです。どこからか飛んでくるアイデアは、どの作家に来てもいいというわけではなく、何かの法則で来るのでしょう。だから、やはり思いも寄らないものが書けてしまったとしても、それはその作家が生んだものなのです。
 そのように考えると、親と子供の関係が出来るわけで、「こんな子供を産んだ覚はない」という言葉が、作家と作品の間にも通用することでしょう。
 つまり、入魂とは、生まれた作品が作家のものを離れて独り立ちすることです。
 神事の世界でも、仏像に行者が入魂すると言うことが頻繁にありますが、その場合でも、入魂とは行者が自分の命を削るようにして入魂しても、そこに入魂された魂は生みの親とは異なる命なのです。だから、仏像にうまく入魂できても、行者はその仏像を自分よりも尊いものとして敬うものです。
 書に話を戻していくと、西川寧先生が、自分の書いたものの前ではうなされて寝られないような、そんな作品を書きたいと言われたことがありましたが、これはまさにこの入魂された作品のことを語っているように思えます。自分と似たものが近くにいても安心できるでしょうが、それが誰かも分からない者だったら、確かに寝てはいられません。まして、それが、壁や床の間に飾ってあって、波動を送るように何かを訴えてくるとすれば尚のことです。
 自分のことを行って申し訳ありませんが、自分の作品にもこの入魂が出来てしまったことがいくつもあります。その場合は結構大変です。大きな紙に、目印につけて置いた鉛筆の跡を消そうとして、作品の上にずかずかと無遠慮に乗ると、気持ちが悪くなります。何時間もその状態が続くとともあります。作品がもっと気を使えと言っているようです。そんなときは悪かったな、勘弁してくれと心から思うしかできないのです。
 この入魂された作品は、時につむじ曲がりです。展覧会では多くの場合は、墨が黒々として背景の白も引き立つように見えますが、たまに、鑑賞者を嫌っておかしな雰囲気をもたらすことがあります(審査の時にそれが出たらどうしょう。)。それでも、それは生きた作品ですから、もう自分が書いた後は私の手には負えません。漫画の時と同じです。書にはストーリーと呼べるものは、『作品の意味内容』ではなく、石川九楊氏の言い方をまねすれば、『筆触の変化』に相当するでしょう。しかし、その筆触をも超えて、何か命があるのです。夜見たら怖いかも知れません。絵画でも、円山応挙の描いた軸から本当に幽霊が出るというのもあり得ると思います。
 しかし、考えると沢山の問題があります。例えば、入魂された命とは、ではいったい何なのか?どのようなときに命が入るのか?等々。
 本当はここで述べたことは、入魂に関してはほんの一部のことで、まともに考えていったら、それこそ一冊の本になると思います。しかし、まあ今日はこんな事もあるのかと言うくらいに聞いてもらえたらいいかと思います。

 

第9話  いっそ井上陽水    岩井笙韻

第9話  いっそ井上陽水    岩井笙韻


 はなはだしく脱線して別のジャンルのことを書きます。でも、おさらいを兼ねています。
 まずは井上陽水!(どうしてかな?)
 井上陽水に『いっそセレナーデ』と言う曲があるからこのような題名にしました。
 誰でもそうかどうか分からないけれど、私にはいつでも聞いていたい、いつ聞いても良いなあと思うミュージシャンがいます。
枚挙してみると・・・。


井上陽水
沢田研二(一人で歌い出してから)
森山良子(ザワワザワワは長すぎて嫌になることも)
ブラームス


 実は熱狂的に好きなものは他にもあります。例えばベートーベン。ピアノソナタ全曲集だけで五組もっています。しかし、たまにどうしても聞く気にならないときがある。岩崎宏美の声はいつでも聞いていたいけれど、どういう訳か飽きてしまうときも(彼女は―と言っても付き合っているわけではないが―私と同じ音域。だから何でも歌える)。
 しかし、上記の四人はいつでも聞いていたくなります。なんか共通項がないし、一貫性がないですねー。
 ところがよく見ると、沢田・森山・ブラームスには共通項があります。勿論、私にとってと言うことですが。それは、感情、感性の流れが自分に沿っているような感じなのです。
 それに引き替え井上陽水!
 あるものは怪しく、あるものは謎に満ちて、あるものはくだらなく、あるものは郷愁を誘う。アルバムは驚きの構成。これは何なのか? 二十代の頃、心に決めたことがありました。よし、いつかはこの男の謎を解くぞ、と。
 それから30年。ほとんどの曲を聴き、十六枚組などと言うアルバムも買い、研究書(?)も読み(『陽水の快楽』武田青嗣著が一番面白い)ひたすら博士号を目指しました(??)。十六枚組みを一気に聞いたときは寝込むようなこともありました。しかし、そこまで気に入っていたわけです。新しいアルバムが出るとたいていはその意外性に驚いてしまうのですが、それが、どこかで自分の琴線に触れているのです。
 『井上陽水』というのは本名です。「陽水」を「あきみ」と読みます。誰もそのように呼んでくれないので嫌になったようなことが何かに載っていました。でも、この名前、あの音楽そのものに思えませんか?
 <陽水>とは私のイメージでは<逃げ水>のことです。晴れた日にアスファルトの道を車で走っていると、遠い道に水がまかれたように、さながら鏡の面のように、道の上の車や世界を映し出す、あの蜃気楼。水に映った太陽(それで<陽水>)。そこに近づこうとすると消えてしまう。映し出された世界が、近づくにつれて逃げていくような・・・。そんな音楽ではないですか? 誰にでもお勧めできる名曲入りのアルバムをと言われたら、

  『氷の世界』
  『二色の独楽』

を聞いてください。特に『氷の世界』の中の『心もよう』は誰が聞いても名曲だと思います。
 しかし、陽水の本当の名曲は、『二色の独楽』にある『ゼンマイじかけのカブト虫』だと思うのです。


カブト虫 こわれた
一緒に楽しく遊んでいたのに
幸福に糸つけ
ひきずりまわしていてこわれた

白いシャツ汚した
いつでも気をつけて着ていたのに
雨上がり嬉しく
飛んだり はねたりして汚した

青い鳥逃がした
毎日 毎日 唄っていたのに
鳥籠をきれいに
掃除をしているとき逃がした

君の顔 笑った
なんにも おかしい事はないのに
君の目が こわれた
ゼンマイじかけのカブト虫みたい


 悲しげなトーンの中に語られるのは失恋のようでもある。しかし、それこそ子供の心のままに世界とつながりを持とうとしても、というよりは正確には持とうとするが故に、世界は自分から双曲線のように離れていく。すれ違っていく。どこにも悪意はないのに。
 心が繋がっていると思っていた恋人がある日自分を訳もなく笑う。心の繋がりでありそうな眼が、壊れてしまったような。もう自分の心は届いていない。それは理由や動機とは異なる、世界の自分との異質性の意識である。世界は自分が思ったのとは違う何者かなのだ。
 曲によっては陽水の歌は、何かを求めて生きていたいのに何をどうして良いかも分からない青春のいらだちを表してもいます。又、コミカルに、爆発した自閉症のような曲もあります。暗そうなのにバカに明るいときがあるのです。  しかし、この『ゼンマイじかけのカブト虫』のように、さりげなくちりばめられた曲に陽水の本質の部分が語られているように思うのです。
 それは、この世には、自分のあこがれ求めるものが、あらかじめ無いと分かっていながら、あの世に向かうよりもこの世をそれなりに(ここが大切)楽しみ、だから、都会も田舎も、社会悪も花見も、ミスコンテストも相撲も全て一緒くたにして、どうとでも思えるような楽しみに変え、どうせならいっそ周りを楽しませながら生きること、そう言う自分と世界との独特の乖離が生む美しさなのです(但し、井上陽水があこがれ求めるものが、どんなものであるかについては又一考を要します)。  武田青嗣が指摘するように、陽水の歌には失恋そのものを歌った歌はないのです。それらしいものはあってもそれは、演歌や他のフォーク歌手のようにならないのです。感情からどこか隔たっているのです。
 これはさんまやたけしの客観性に似ています。この客観性が私には心地よいのです。
 もし、陽水のアルバムの中で最高傑作を挙げよと言われたら迷うことなく、

  『ライオンとペリカン』

を挙げます。『とまどうペリカン』という一種の(?)ラブソングで始まり、次の『チャイニーズフード』という何回聞いても意味の分からないような曲を経て紆余曲折、あっち行きこっち行き、遂に本来は沢田研二に捧げた『背中まで45分』で締めくくり。何年も経ってテレビドラマの主題歌に取り上げられた『リバーサイドホテル』、宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』をもじった『ワカンナイ』。どれも逸品!
 しかし、この美しさはやはり、あの客観性です。
 一応、この文章は『書のプロムナード』に乗せているのだから、ここで書の事も一つ。
 書の客観性は文字で保証されています。前衛派の弱みはここなのです。前衛派は、その客観性の部分を自分で保証しなければただ感情を押しつけてしまう可能性があるからです。しかし、逆にこの客観性が強いので、なかなか他の芸術のように自由がきかないという側面があります。却って、この客観性が邪魔になってムキになって変わったスタイルを持ち出す書家も出てきます。しかし、その客観性の保証をうまく利用して出来上がった名作がいわゆる古典として残っているでしょう。それらをクールに見てみるのはすごい勉強です。歌舞伎の型のことも思い出してくださいね。
 それでは次も又、もしかするといっそ○○と言う事になるかも。